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2006年2月23日 (木)

『スウィングガールズ』

『スウィングガールズ』は日本の映画です。これは、非常に楽しめた映画でした。きっかけはテレビで放映していたことです。それを見ていて「これはおもしろい」と思い、インターネットで情報を探したのですが、まあ、びっくり! あの演奏が、すべて役者さんたち――女子高生らが実際に演奏していたというではありませんか。これは、すごい。 私はてっきり吹き替えだと思っていましたから驚きとともに、すぐにDVDの購入を決めたのです。

私ごとですが、たまたま中学・高校とブラスバンドに所属しトランペットを吹いていましたし、また学生時代を山形で過ごしましたので、この『スウィングガールズ』は二重に共感できるものがありました。もちろん映画に使われた米沢弁とは若干違うようですが、イントネーションやら、語尾などほとんど同じに感じました。山形弁よりむしろわかりやすいのではないでしょうか。

さて、映画に入ります(ネタばれ注意)。

この映画の冒頭は、夏休みの補習授業シーンから始まります……。と、あらすじをたどっていくのもしようがないくらい、どうでもいいような話が淡々と続きます。といって、てんでつまらないというほどでもなく、かといってワクワクドキドキするようなストーリーとはほど遠い、そんな展開です。要は、勉学にはとんと興味が持てないごく普通の女子高生たち(おっと男子高生も一人プラスしていますが)がいろいろな成り行きでジャズバンドを結成し、いつの間にかジャズに夢中になっていく、そういうストーリーです。まあ、監督としては女子高生がなぜジャズをやるようになるのかを一応語っておく必要を感じたのでしょう、この映画の最大の見せ場でとなるラスト・シーンにつなげるためにつくった苦心の物語といったところです。

最初にテレビで見たときは、なんとなくぼっーと眺めるような感じで見ていたのですが、あのスーパーの前で演奏した「故郷の空」のあたりから、そして、それを聞いて一度はバンドから離れていったブランド物に身を固めた女子高生らが加わって演奏した「メイク・ハー・マイン」のあたりに来ると、いつの間にかぐっと身を乗り出していました。

そして、ついにラスト・シーンの演奏会です。

いやあ、実に感動しましたねえ。あの「ムーンライト・セレナーデ」もよかったですが、「メキシカン・フライヤー」から「シング・シング・シング」に移っていったときのゾクゾク感、そして何より「シング・シング・シング」の演奏自体がすばらしかった。とくに私が感動したのは、ソロもさることながら「シング・シング・シング」での後半のブラス全員による「追い込み」演奏のところ。カメラワークもよかったのでしょうが、とにかく全員のノリが伝わり、しかも文字どおりクライマックスに向けて、全員が完全に一つになっている姿――これはすごいことです!――はちょっと目頭が熱くなるほどのものがありました。

印象に残ったものだけ思いつくままに見ていきます。まず「ムーンライト・セレナーデ」。ゆったりと入り、クライマックスに向けての導入部としては実にいい選択だったように思います。演奏中、松田まどかのバリトン・サックスのあの低音から上っていく聞かせどころのフレーズもうまく決まっていました。また、ふだんどうしても目立ちにくいセクションですから、ここでソロを入れたのでしょう、関根香菜、水田芙美子のギター、ベース・ソロもよかったです。

そして、次の曲への間奏に豊島由佳梨のドラム・ソロ。豊島のソロは基本に忠実なもので余り派手なオカズ打ちはなかったですが、2か月あまりの練習期間としてはノリの伝わるいい演奏だったのではないでしょうか。

さて、「メキシカン・フライヤー」です。ここは、映画では竹中直人と白石美帆との会話のシーンが入って演奏自体は控え目になっているため、雰囲気の維持といった役どころでした。後日、「スウィングガールズ ファースト&ラストコンサート」を購入して聴いてみたら、水田がインタビューに答えていたとおり、ベース・ギターがものすごいアップテンポでリズムをとりにくくかなり苦労している様子が聞き取れました。まあ、映画の位置づけくらいがちょうどよかったのかもしれません。

さあ、満を持しての「シンク・シング・シング」です。私は、ときどきNHKの朝ドラに出ていた本仮屋ユイカの顔だけは見覚えがありました。その子がトロンボーンを吹くシーンを初めて見たときには、吹き替えだと思っていましたから、役者だなあ、うまくあて振りするもんだなあ、ぐらいにしか見ていませんでした(もちろん、音楽自体は楽しめましたけど)。

ところが冒頭でも述べたように、すべて彼女らが演奏していると知って本当にびっくりでした。

かっこよかったですねえ、本仮屋ユイカのトロンボーン・ソロ。この後の貫地谷しほりのトランペット・ソロにも言えるのですが、あのソロ・パートは、かなり易しくアレンジされていたと思います。恐らくアレンジャーは、彼女らの当時の技量を見て、いちばん妥当な楽譜を用意したのでしょう。ですから、技術的にさほど難しいものでないことは多少管楽器をかじった人ならわかると思いますが、そういう技術うんぬんではない何かが彼女らの演奏には確かにありました。

それは、短い期間で懸命に努力した必死さ、ひたむきさそのもの、映画をつくる一人として役を演じきるプロ意識、そういったものかもしれません。いずれにしろ、それらをすべてひっくるめて、月並みな表現ですが「魂のこもった演奏」が実現したのだと思います。その意味で、バンドを指導した山口れおさんの方針は的確だったでしょうし、狙いどおりのものができ上がったと言えそうです。

この後に続くクライマックスはもう言わずもがなです。豊島のドラムを皮切りに平岡祐太のピアノも短いながらとてもインパクトのある演奏でしたし、いよいよ上野樹里の登場です。上野のテナー・サックスのソロは難しそうにみえましたね、私はリード楽器はやったことがないのでよくわかりませんが。また、上野と平岡の、かけあい的な演技をしながらの演奏は、注意力をそがれる分、よほど音楽に乗りきれていないとなかなか難しいかと思いますが、少なくとも映画ではうまくその様子が撮られていました(まあ、何回も見ると編集というか、切り貼りされているのかなあとは思いましたが(^^;))。

上野樹里は、今回初めて見る女優さんでした。しかし、この映画を繰り返し見るほどに印象に残る役者さんとなりました。あの冒頭の補習授業での大あくびの演技以外は、とてもナチュラルで確かな演技力を感じさせてくれます。とくにあの友子の自宅でのシーン。食中毒にかかったブラスバンド部のニュースがテレビから流れています。と、そこに電話が鳴りますが、誰も出ようとしません。しびれを切らした父(小日向文世)はなかなか電話に出ない友子の尻をたたいて促します。しぶしぶと、しかし、いかにも調子よく――この2つの状況を同時に出す演技です――電話に出るところはものすごくうまく感じました。「めんどくさいなあ」という気持ちと、父親が叱るから「しようがないか」というあきらめと、それら2つの感情にはこだわらず「ま、いいか」というような、単なるいい加減さとも違う、いわば軽妙で磊落(らいらく)な性格をあのワンシーンでものの見事に表現しています。その後にも、サックスを買ってくれとせがむシーンでおばあちゃんの様子をうかがい見る演技など、うまいなあ、と感じたものです。

メイキングビデオで矢口監督が言っていましたが、友子をやれる役者は上野しかいなかった、と。これは、わかる気がします。往々にして重厚な役や強烈な個性の役など、テンションの張った役どころを得意とする役者さんは多いように思います。しかし、今回の友子のような軽み(あえて「かろみ」と読ませたい)を醸し出せる役者さんは案外少ないのかもしれません。一種の天性のものが要求されるからでしょうか。

ついでに言うと、コメンタリーで上野は、「友子」は自分だとも言っていました。これは、特別な役づくりをしなくても友子を演じられたということでしょうが、別の見方をすると演じている感じが見えないということになり、しばしば彼女の評価を誤らせる原因となっている可能性があります。

どういうことかというと、これはどこかのサイトで見たことがあり、私も初めはそう思ったのでよく覚えているのですが、この映画の上野は、目立たず主役らしくない、という評価でした。そのとおり、一応中心にはいるのですが特別に目立っているわけではないですし、主役としてどんどん前に出ているかというとそれほどでもない。確かにそのとおりなのですが、それはこの映画の性格から来るもの――これはメイキングを見るとわかりますが、バンドメンバーを平等に撮ろうという方針です――ということと、もう1つには友子と上野が区別できないほどに余りにピッタリし過ぎていた、ということから来るのだ思うのです。それに気づくには数回見ないとわからないかもしれません。

この映画をきっかけにして上野樹里に注目し、実は『チルソクの夏』、『ジョゼと虎と魚たち』の2本のDVDを見ました。「ジョゼ」での上野樹里はなかなかインパクトがありました。主役の池脇千鶴もうまい役者だなあと思いましたが、上野もかなり向こうを張っていたように思います。とくに坂道で乳母車に乗る池脇と直接対峙して、ほっぺたをひっぱたき合うシーンはとても印象的でした。さながら本格派女優の対決といった趣です(余談ながら、この映画で上野は妻夫木聡とベッドシーンをしていたのでびっくりでした。友子のイメージが強いものですから、なおさらです(笑))。

おっと、『スウィングガールズ』でした。

総じて、この映画の成功は、やはり矢口監督のアイデアとこだわりによるものだと思います。とにかく、吹き替えなしで実際に役者に演奏させるなど、無謀もいいところではないでしょうか。メイキングビデオの中でどなたかスタッフの方が、「矢口監督の求めるリアリティは、普通のレベルのリアリティより数段高いレベルのそれだ」というようなことを言われていたのですが、そのとおりだと思います。それにこだわり続け、それを実現してしまった、というところにすべてが言い尽くされそうです。

そして、それゆえ、そのとんでもない要求に応えたバンド・メンバー全員の努力は大きく褒めたたえられてよいでしょう。

バンドをやったことがある人ならわかりますが、自分のパートを完全にできないとほかのみんなに多大な迷惑をかけることになります。いわゆる足を引っ張るというやつです。ですから、迷惑をかけないよう各人相当の努力を強いられます。楽器演奏の初期は、練習しかない世界なのですから。この映画の場合、その上に演技もしなければいけません。しかも、練習期間はたった3か月余りという短い間に――いまでもとても信じられない――です。普通なら、音を上げてしまっても一向に不思議はない状況だったと思われます。

彼ら全員の立場は恐らくこうです。「なんだか知らないうちに、どえらい映画に参加してしまったようだ。ここはとにかく演技においても演奏においても、やれるところまで全身全霊、ありったけの力を出し切るしかない」と。つまり、彼らはそれぞれ自分の限界と日々向き合い挑戦し続けていた、そういう本物のドラマが背後にあったわけです。それを一言で言うなら「一生懸命」でしょう。余裕も何もあるはずもなく、ただひたすら「一生懸命」。それを、あのラストシーンにすべて出し尽くしたからこそ、また、その純粋な「一生懸命」を我々観客が感じとったからこそ、あれだけ感動を与える演奏シーンになったのだ、と私は思います。

スウィングガールズ&ア・ボーイの皆さん、お見事! そして、矢口監督をはじめスタッフの皆さん、感動をありがとう。(拍手)


レビュー紹介

● 私が楽しく読んだレビュー

     ・Webサイト「hot milk」

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2006年2月22日 (水)

『イルマーレ』(韓国オリジナル版)

[この感想は韓国オリジナル版です。アメリカ・リメイク版の映画感想はこちらです。]

『イルマーレ』であります。

チョン・ジヒョンの出演作ということから、とにかく見てみました。これもまた、実におもしろい映画でした。昔はかなりSF小説を読む方でしたから、この時空のねじれによるワープものというテーマは結構好きです。その時空のねじれが、ある海辺の家「イルマーレ」の郵便受けに限定的に生じたたという発想がおもしろいと思います。

詳しいことはよくわかりませんが、最近の宇宙論の一つに「並行宇宙論(多次元時間解釈)」というのがあるそうです。それはざっくり言うと、時空は無限に可能なのでいわゆるタイム・パラドックスは考える必要はない、というものです。昔から、タイムマシンものではタイム・パラドックスという定番の問題がありました。現在の人間が過去に戻って歴史を変えると、もともといた今の世界が変わってしまうことになる。それは矛盾となるためそういうことはできないはずだというものです。

ところが、この並行宇宙論によると、その変えられた世界はその世界そのものが独自の時空となるため、変えられる前の世界とは全く独立して新たな時空が成り立つというのです(ただし、元の世界には戻れません)。したがって、たとえば自分が過去に戻って父母や祖先をうっかり殺したとしても、この自分は消えたりせず新たなそういう歴史を持つ――つまり、時間旅行によって歴史が変えられたことを織り込み済みの時空に生きることになるのだ、とだいたいこんな内容だったと思います。考えられる可能性の数だけ宇宙が存在することになりますから、「何でもあり」の宇宙論とも言えます。

さて、今回の『イルマーレ』を考える際には、この多次元時間解釈を援用しないとほとんど理解できないと思われます。

(ここからネタばれ

ここで考えを整理するために少しあらすじを振り返ります。

1999年の末、若き声優キム・ウンジュ(チョン・ジヒョン)は、それまで住んできた海辺の家「イルマーレ」を離れようとします。その際、次の住人あてに自分あての手紙が来たら、こちらの住所に転送してくださいという、転送依頼のメッセージを郵便受けに残します。

ところが、このメッセージを受け取ったのは、あろうことか1997年のハン・ソンヒョン(イ・ジョンジェ)でした。彼は、この完成したばかりの海辺の家に引っ越してきて、つい先日この家の名前を「イルマーレ」と名づけたばかりです。つまり、彼の前の住人はいないはずなのです。えっ、ということは? そう、この郵便受けはちょうど2年間という時空をワープし、2つの世界をつなげるという代物だったのです。さあ、たいへん。

当初は信じられなかった2人も、ウンジュの過去の日記に書いてあった1997年の出来事をソンヒョンに伝え、それが確認されることによってワープする郵便受けは疑いのないものとなります。このようにして、郵便受けをはさんだ2人のドラマが語られていきます。

はじめはただ2年間という時空の違いを単純に楽しむ程度のやりとりでしたが、この時間差を利用すれば何ができるかについてだんだんわかり始めるにつれて、ついにウンジュは、最近失恋したばかりの恋人を取り戻すため過去にいるソンヒョンを利用しようとします。ソンヒョンは、その願いを受け入れ行動に出ます……。

ちょっと、ここで出来事の次第を列記してみましょう。普通の年号はウンジュのいる年号で、<年号>はハン・ソンヒョンの生きている年号です。そして、青字はソンヒョンの行動です。

  • 1999<1997>年12月21日――キム・ウンジュがイルマーレを離れる。手紙の転送依頼をこの日郵便受けに投函。
  • 1999<1997>年12月28日――ハン・ソンヒョンがウンジュのメッセージに気がつく。そして、ウンジュあて、「イルマーレの最初の住人は自分だし、何か勘違いしているんじゃいかい、今は1997年だよ」と返答。
  • 1999<1997>年12月29日――ウンジュは、「いたずらはやめて」と応酬。
  • 2000<1998>年1月7日――ソンヒョンから、「いまだに手紙が届くが、間違いなく今は1998年」と返事あり。また、休学届を出す。その届には、1998年3月2日~6月2日までと記載。
  • 2000<1998>年1月9日――1月9日大雪が降るとウンジュから手紙。そのとおりになってソンヒョンから「信じられない」と返事。
  • 2000年<1998>2月11日――ウンジュが日記から、大事な録音機を駅のベンチに置き忘れたことを伝える。ソンヒョンがそれを取りに行く。そして、録音機に自分の声を録音してウンジュに返却。
  • ウンジュは録音機を受け取り、お礼に耳あてと小さな魚を送る。ソンヒョンは駅のベンチでウンジュを確認、初めて会う。しかし、当然ながら当時のウンジュはソンヒョンのことはまったく知らないので気がつかない。
  • 2000年<1998> 3月7日――「2000年3月11日午後3時に済州島で会おう」と約束をする。しかし、ソンヒョンは来なかった。ソンヒョンは、自分が行かなかったことについて「忘れるはずはないのになあ」とコメント。
  • ウンジュが失恋した彼氏を「離れないようにして」とソンヒョンに依頼。ターニングポイントとなる喫茶店「モーニング」で2人に会いに来るようソンヒョンは依頼される。
  • 2000<1998>年3月25日――ソンヒョンは意を決して「モーニング」に向かうためイルマーレを出発する。一方ちょうどそのころ、ウンジュはソンヒョンの在籍した大学を訪ねてみる。そこで、ソンヒョンの友人から彼が事故で2年前に亡くなったという話を聞く。突然、ウンジュはあの喫茶店「モーニング」の目の前でソンヒョンが交通事故にあって死んだことを思い出す。あわてて喫茶店に来ないようイルマーレの郵便受けにメモを投函する。自分の給料袋にメモを入れて……。

こんな流れでした。

さて、この映画は時空が錯綜(さくそう)しているので、それぞれの時空を整理しないとこんがらかってしまいます。並行宇宙論をベースに整理してみると、恐らく3つ、いや4つの時空を別々に考えていく必要があると思います。

第1時空は、このイルマーレの郵便受けがワープしない時空間。これは、この映画の成立自体を否定するものですが、もっとも我々の日常経験になじむものであり、何と言ってもこの時空が基本になります。ソンヒョンとウンジュの交流は起きるはずもない、そういう世界です。

第2時空は、この郵便受けがワープすることを認める時空間、つまりこの映画そのものです。ただし、いちばん最後のシーンで余計な時空間がふえます。そう、最後の最後で交通事故に遭わなかったソンヒョンが生き残り、ウンジュに出会う世界です。ただ、ここが非常にややこしい。

いま、ソンヒョンの助かった時空を第3時空と呼ぶことにします。第2時空では、ウンジュに喫茶店に呼び出されたソンヒョンは交通事故死します――だから、済州島にもあらわれなかった――から、そこから助かる時空はまた別の時空になるわけです。それは、ウンジュの「来ないで!」のメモが間に合う時空です。間に合わなければ第2時空のままになり、その世界も並行してどこかにあるはずです(だから「並行宇宙」です)。

さあ、こうして第3時空が生まれました。普通このドラマの流れからいっていちばんわかりやすい展開は、あのメモを投函した直後にソンヒョンがウンジュの前にあらわれてくれることです。そうすれば、観客も「ああ、ウンジュのメモが間に合ったんだ、助かってよかったなあ」と安堵できるのです。何ならそこで映画が終わってもいいでしょう。それはそれで1つのハッピーエンドと言えますし、何と言ってもこの場合にはこの第3時空で終わってもらえるのです。

ところが、です。この監督はどうやらもうひとひねりしたかったようです。というのは次の時空――第4時空までつくってしまうからです。

第4時空はどういうものかを考える前に、まず第3時空(ソンヒョン助かり時空)の世界を復習してみましょう。第3時空では命が助かったソンヒョンがいます。あのメモを見て、喫茶店に行かなかったため事故に遭わず生き続けている時空です。ですから、第3時空のソンヒョンは1998年3月25日以降いつでもウンジュに会うことができるはずです(正確には、イルマーレにウンジュが入居してから後ですが、その日付は映画ではわかりません)。そうすると先ほど上に述べたように、2000年3月25日のウンジュがあの郵便受けのところで祈るようにしてメモを投函した後、すぐにあらわれることはやろうとおもえば可能なはずですし、それがいちばんドラマの展開上理解しやすいことは先ほども見ました。

しかし、しかし、ここで監督はあえて1999年の12月21日、ウンジュがイルマーレから離れる時間にソンヒョンを登場させたのです。うーん! このために、最初見たときこんがらかったんですね。「えっ、何か変だなあ」と思ったのですが、ここがわかりにくかったのです。

第4時空の誕生です。いろいろな可能性のある時空の中から、監督はウンジュが引っ越しする冒頭の場面で主人公2人を引き合わせたのです。これは、いわばこの映画の肝(きも)と言っていいのではないでしょうか。まあ、途中でエッシャーのだまし絵を見せたりしていましたから、そういう時空の迷宮性を描きたかったのかもしれません。あるいは、単に映画としての美的な効果をねらって、冒頭の景色を最後に持っていった――確かに絵的には美しいものがありました――のかもしれません。まあ、恐らく両方でしょう。

ただ、この第4時空が登場することによって、この後の2人の展開はものすごく不安定になります。ですから、観客としては何かほっぽり出されたような感じとなるのです。

何と言っても、この2人が初めて顔を合わせる第4時空の1999年12月21日は、ウンジュはまだソンヒョンについてなにも知らないのです。一方、21日以降に起きるドラマについて知っているソンヒョンはまことに奇妙な存在となります。だって、手には2000年3月の給料袋――この時点ではウンジュにとって自分の未来の給料袋を持っているのですから。そのうえ、この後約1週間後の12月28日の郵便受けに、ウンジュは1997年のソンヒョンからの手紙を受け取ることになるのですから。そして、ソンヒョンは、今度は過去に自分が送った自分の手紙をウンジュと一緒に見ることになります。――いや、そもそもこの第4時空の出会いの後、ウンジュは果たして郵便受けに転送依頼メッセージを入れるかどうかもわかりません。ソンヒョンがあそこでどう話すかわからないのですから。一体どうなるんでしょう?

                    …………………

と、以上のような内容をまとめたものを書いて公開したら、たこ麗子さんという方から以下のサイトを紹介していただきました。

                      映画生活

ここのコメント集を読んで、私の解釈の見落としを発見しました。

ここにあるアードベッグさんとたこ麗子さんとのやりとりに出てくる「コーラ」の存在です。私は、このコーラの存在について全く考慮していなかったのです。もちろん、麗子さんの言うように子犬から成犬にと考えれば不思議はないという、それはそのとおりなんですが、そっちの議論ではなくて、私の述べた第3時空――つまり、ソンヒョンが生き残った時空では、いかにしてコーラをウンジュに引き継ぐのかという視点が欠けていたことに気づかされたのです。それは同時に、ソンヒョンとウンジュの引っ越しのタイミングをどうするか、ということにつながる問題です。

たこ麗子さん曰く「恋人の留学後まもなく(彼が亡くなったので)空き家になったイルマーレに彼女が移転。主人を亡くしたコーラが家に残されていたので彼女が新たな飼い主になりました。」

そう、これが最も自然なコーラ引き継ぎの解釈です。

となると、第3時空でのコーラの引き継ぎは?

1998年3月25日から2人が出会う99年12月21日まで約1年と9か月あります。この1年9か月の間にコーラがうまく引き継がれるためには、どういうケースが考えられるかという問題になります。

(1)ソンヒョンとウンジュとの手紙のやりとりから、ウンジュが入居したときには既にコーラがいた、と話していることを知っているので、ソンヒョンはある日突然コーラを故意に残して自分だけそっと転居した。(んなこたあ、ないだろ! って突っ込まれるよなあ)

(2)ソンヒョンはこの第3時空では、ウンジュがイルマーレに引っ越してくることを知っているから、居ながらにして入居募集をかけ、ウンジュが応募してくるのを見届けてから犬を置いて転居した。(これも考えにくいよなあ)

(1)も(2)もソンヒョンがウンジュの引っ越しを見届けるかどうかの差があるだけで、基本的には変わりません。ただ、こうすれば何とか最後の第4時空を生み出す出会いは可能とはなります。ソンヒョンはいつ会いに行くか、考えに考えた結果、あのウンジュの引っ越しの日を選んだということになります。

でも、何と言っても無理がありますよねえ。

誰でも気づくように、ソンヒョンが助かったのであれば、あの後、手紙のやりとりを全くしていなかった、とするのはいかにも不自然です。「どうして行くのをとめたの?」という手紙が来るのはほぼ必然と言っていいでしょう。そして、その質問にウンジュが全く答えないというのも考えられることではありません。じゃあ、1年9か月の間、さらに2人はいろいろと手紙のやりとりをして、ついにいつ会うのがいいかについて了解し合ったたとか……。もうあり得ないとしか思えないことばかりです(笑)。

そうです、これらは人間交流の自然法則に逆らっているとしか思えないのです。

すると、やはりたこ麗子さんの説明が最も自然となるわけで、そうとなれば第3時空はあり得ない。つまり、やはりソンヒョンは交通事故で亡くなっていなければ自然なドラマとはいえない、というのがどうやら論理的な結論となりそうです。う~ん、うなっちゃいますね。

そうすると、アードベッグさんのご意見の一部を引き取って、ウンジュが「ポストの前で泣き崩れてる場面で終わりなんだ」、というのが無理のない見方なのかなあ~。最後のワンシーンは絵的に美しくするためのほんのおまけ、ってか(笑)。

[後日、これを読んだたこ麗子さんから、あの郵便受けでウンジュが泣き崩れて後すぐにくだんのタイム・ワームホールが閉じてしまって、2人の人間交流ができなくなる可能性はあるという指摘がありました。確かにそうなると、上で述べた(1)と(2)の可能性も一応あり得ることになるのかもしれません。ただ、ウンジュがイルマーレに引っ越してきた日にちを変えずにつなげなければならないなど、引っ越しのタイミングについては謎が残りそうです。参考まで(4/10記)]

いやあ、でもとてつもなく想像力を刺激するおもしろい映画でした。何より、こういう見た後にいろいろと想像させる映画はなかなかありませんから、やはり傑作の1つと言っていいのではないでしょうか。

                      ………………


このブログに上の感想を書いたのは2月でしたが、その後「映画生活」を読んでから書き直したのが4月でした。その後もどうも判然としない感じのままなんとなく過ごしてきましたが、最近また考え直したことがありましたので、以下に追記します。

私は、この映画のラストシーンで、ウンジュが郵便受けの下で泣き崩れているところへ「第3時空(ソンヒョンが助かる時空)」」のソンヒョンが現れればいちばんわかりやすい、と書きました。しかし、よくよく考えるとこれはあり得ないことのようにも思われてきたのです。

なぜなら、ウンジュがメモを出した第2時空では、あの大学のソンヒョンの友人から「彼は交通事故で2年前に死んだ」と聞いてしまったからです。交通事故の原因をつくったのが自分だと知ったからあわててメモを郵便受けに入れたわけですが、あの「行かないで!」のメモを投函する行動を支えている「第2時空」ではソンヒョンがすでに死んだという事実が確定されていることに注意する必要があります。したがって、たとえ手紙が届いて助かった(第3時空)ソンヒョンがウンジュと会えるにしても、郵便受けの前に出現できるはずはないのではないか。つまり、郵便受けの前で泣き崩れるウンジュのシーン自体が第2次空限定のものだったとしか考えられません。そして、そういうストーリーのある宇宙が確実に存在し並行している、とは言えるでしょう。

さて、そうすると第3時空のソンヒョンにはどんなウンジュとの出会いが考えられるか、という問題に進みます。

ソンヒョンが第3次空でもウンジュに出会うためには、まずウンジュに、イルマーレに引っ越してきてもらう必要があります。ところがソンヒョンが死なないことにはイルマーレが空き家になることはないはずなので、結局、上記でグダグダと書いたコーラの引継ぎストーリーにまたも行き着くことになります。したがって、ここで上記のような不自然な仕掛けでウンジュを引っ越しさせることに納得できなければ、やはりあのラストシーンは幻想であってあり得ない、という結論に至るしかありません。それはある意味とても自然な観方です。

しかし、あのコーラ引継ぎを多少の不自然さはあるにしても、ソンヒョンの恋しい気持ちから十分可能な事態だったと考えた場合はどうなるでしょう。あるいは、上記で述べた以外のいい仕掛けがあるかもしれません。

よろしい! 多少不自然ですが、コーラをうまく引き継いだことにいたしましょう。つまり、意図的にソンヒョンがイルマーレを離れてウンジュが入るように仕向けたとするのです。本当はソンヒョンがイルマーレを離れても、この第3時空ではウンジュが後釜に入ることが確定されているわけではありません。しかし、ここではソンヒョンがどうにかして彼女に会いたいために、そういう工夫を何とかしたと考えて、とにかくウンジュがイルマーレに入るようにできた、それが第 3時空だと考えるのです。

そうして、いよいよあの年末がやってきます。ウンジュがイルマーレを去る日です。ここまでは第3時空でも第2時空と同じように推移したとしてよいでしょう。二人の接触はまったくないままだからです。ただし、第2時空と違うのは、この時点で2年間をつなぐワープ交信の記憶を、ソンヒョンだけは持っているということです。

さあ、ソンヒョンは「こんな奇妙な話を信じてもらえるだろうか」と言ってウンジュに近づきます。この時点ですでに第3時空の新たな物語はかなり進んでいるのですが、あの郵便受けがワープするかしないかはまったく関係のない話となります。もっと言うと、第2時空の郵便受けはワープしたけれど、第3時空の郵便受けはワープしないと考えるのが自然です。つまり、あのラストシーンから新たに出会った二人の物語が始まったことを示していることになります。だとすればあの終わり方はあれでありじゃないか、そう思えるようになってきました。 まあ、まだ釈然とした感じからは程遠いのですが、一応こんなことを考えたので追記とします(6月7日)。    

                     ………………

この映画とよく比較されるらしいので、『リメンバー・ミー』も見てみました。キム・ハヌルが主演で、出だしから中盤まではなかなかおもしろい映画でした。電源不要の不思議な無線機を介して1979年の彼女と2000年の男――深い因縁のある学生――との交流の物語です。

ただ、こちらの映画は明らかにタイム・パラドックスによる制限を前提としているため、時空は決定論的な1つの世界しかありません。そのためどうしても未来の出来事が現在を決定することになり、ある意味救いのない結末となりました。ですから、映画を見終わったあとの後味はいま1つでした。その上、あのチ・インにつきまとう娘ソ・ヒョンジにどういう意味があったのか、全くわかりません。あのヒョンジが最後にどんでん返しの切り札(例えば、ソウンの幸せな結婚を示す娘だったとか)になるのかと多少期待していたのですが、全くその気配もなくその点でも何か物足りない映画だったように思います。だって、あの女は一体何者なのか、随分思わせぶりなところがあったと思いませんか。テーマがなかなかおもしろかっただけにちょっと残念でした。

まあ、見方によっては、人間は往々にして未来を知りたがるけれど、やはり知らないままのほうが実は幸せに生きられるのだ、というメッセージとして受け取ることもできますが、どうなんでしょう。

ところで、この映画で、キム・ハヌルの声もなかなかいい声だな、いやきっとせりふ回しもうまい女優なんだなと気づきました。あの最後の無線交信で彼女の語るモノローグ――「香り」についてのモノローグのところです。ハングルはわかりませんが声の調子だけでもまるで音楽のようで、とても心地よい「語り」だったように思います。

もっとも内容がさっぱりわからないのには閉口しました。字幕によると、何やら死んだら香りがなくなるけど、中には死んだ後にも香りを放つ人がいるとか、彼の香りをいつも私は感じることができるとか、1979年の喜びは2000年にも感じられるはずとかなんとか、さっぱり要領を得ない内容だったように思います。これ、ほんとにこの訳でいいの? と思って見ていました。

それにしても、この2つの映画はそれぞれ2001年、2000年と公開時期は1年しか違わないんですね。にもかかわらず、時空間に対する考え方がまったく違っているのは驚きです。上述のように『イルマーレ』は並行宇宙論をたくみに組み込んでつくっているように見えますが、『リメンバー・ミー』のほうはタイム・パラドックスによる時空の制限を自明のものとして考えています。だからこそ、あのオールド・ミス?となったユン・ソウン教授(キム・ハヌル)を出すしかなかったのでしょう。

まあ、両者それぞれ現代における代表的な時空に対する考え方を基にしてつくられているという意味でそれなりに意義のある映画だったように思います。ただ、個人的には『リメンバー・ミー』のような決定論的な結末は見るに忍びなかったなあ、と。あれでは、ソウンは決められた未来を背負いながら生きなければならなくなります――まあ、それらをすべて受け入れるという語りを入れていたようですが。でもやはりそうではなく、将来に対する可能性なり、救いなりがあるような終わり方――それは何も恋の成就でなくてもいいのですが――にしてほしかったところです。

ともあれ、「時」をめぐるドラマはいつもおもしろいです。今後はどんなドラマを見せてくれるのか楽しみです。

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『ラブストーリー(原題 :クラシック)』

『猟奇的な彼女』(感想はこちら)に端を発して、次々と韓国映画を中心に、正月休みを挟む約1か月間で20本くらい見てしまいました。総じて韓国映画はおもしろいものが多いというのが感想です。

今回は『ラブストーリー』について書きます。

クァク・ジェヨン監督の作品は、これで3本目。『僕の彼女を紹介します』、『猟奇的な彼女』、そしてこの『ラブストーリー』の順に見ました。 『猟奇的な彼女』についての感想は前回述べました。『僕の彼女を紹介します』はめずらしく劇場で見たのですが、始まってから20分もするともういらいらして席を立とうとしたことが再三でした。それでも、高い金を出した(笑)――1800円も払ったのだからと最後まで我慢して見ましたが、この監督のいちばん悪いところが出た映画だと思います。確かにところどころ美しい映像もあり、見ようによっては感動的なシーンもあるのでしょうが、ストーリー的に余りに支離滅裂、荒唐無稽に過ぎます。この映画は、単にクァク監督の撮りたい映像をつなげるために無理やりストーリーをくっつけたのではないかと言いたいほど、ある意味で監督におもねった作品だったのではないでしょうか。私がいちばん重視したい自然にその映画の世界に入り込めるかというポイントは、まるで無視された作品でした。まあ、辛うじて主人公のチョン・ジヒョンの演技力だけはそれなりに目立っておりましたが、それ以外は見るべきもののない駄作だったと思います。

おっと、今回は『ラブストーリー』のお話です。

さて、原題の『クラシック』のほうがはるかに響きといい、内容といい、ぴったりしていたのではないでしょうか。冒頭からパッヘルベルの「カノン」でしたし、ジュヒの高校の演奏会でもビバルディの「四季」やベートーベンの「悲愴」でした。何よりストーリー仕立てがまさに古典的でしたからなおさらです。

クァク監督のおもしろさは、時空間を自在に行き来するテーマを描くところにあるのではないかと思います。『猟奇的な彼女』では、それがUFOに乗ってやってくる未来人の物語として暗示されていましたし、この『ラブストーリー』では母と娘の二元中継的な恋物語によって、それが描写されています。果たして現在と過去はどこかで交点を結ぶのでしょうか?

ここからネタばれです。

冒頭でジヘ(ソン・イェジン)が母の初恋の思い出を記した日記や手紙を発見することからこの物語は始まります。この出だしはなかなかいい感じです。いかにも、これから物語が語られますよという心地よいイントロダクションです。そして、日記に挟まれた1枚の古い写真のクローズアップからストーリーに……、実にいい流れです。陳腐ですがとても安心感があります。

高校2年の夏休み、オ・ジュナ(チョ・スンウ)とソン・ジュヒ(ソン・イェジン二役)はそれぞれとある田舎にある親戚の家に遊びに来ました。ある日、ジュナが村の少年たちと一緒に遊んでいるときに、2人は初めて出会います。そして、村の川向こうにあるお化け屋敷と呼ばれる古い建物に一緒に訪れることから、この映画の一組目の物語はスタートします。とても自然です。しかも、ところどころに恐怖を誘うものあり、笑いあり、すがすがしさ、ほほ笑ましさありと、おそらくはだれにでもあったであろう思春期の美しい1ページを思い出させてくれます。そして、圧巻は古びた木の橋のたもとでホタルとたわむれる2人の情景でしょう。これは、実にきれいです。もうクラシックな恋物語としては、これ以上ないぐらいに見事な幻想的シーンでした。そしてこの後、この映画にとって非常に重要なアイテムとなる「ネックレス」が、ジュヒからお礼の品としてジュナに渡されます。

さて、現代に戻ってジュヒの娘ジヘの物語――二組目の物語が始まります。恋物語の輪唱というかフーガというか、はたまた連弾というべきか。それはともかく、現代と36年前とを往復することがここで宣言されます。観客としては、なるほど、そういうことね、と理解も早いです。

ジヘは、ラブレターならぬラブ・メールの代筆を頼まれて知り合うことになったサンミン先輩に好意を寄せています。しかし、ラブ・メールの依頼人である友達スギョンに遠慮もあって、なかなか近づけません。ところが、どうも肝心のサンミンはジヘに好意を抱いているらしいのです。それがサンミンの表情から、我々観客にだけわかるように撮られます。そして、いろいろあって……。

このように展開していくので、ストーリーにどんどん引き込まれていきます。

ここで、また昔に戻ります。ジュナの友人テスが登場。親の取り決めでジュヒはテスの許嫁となったため、ジュヒとジュナ、そしてテスの三角関係がここでめでたく成立(笑)。そして、これまた古典的な、2人の間に立ちながら悩み揺れ動く女心……、とこのように書いてくるだけで冷や汗が出てくるくらいわかりやすいストーリーですね(^^;)。

さらにいろいろな出来事があり……。キリがないのでここでちょっとアクセルを踏み、唐突ながらフィナーレ近くに飛ぶことにします。

ベトナム戦争帰りのジュナとジュヒが喫茶店で再会するシーン。これがやはり後半の見どころの一つと言えそうです。戦争で盲目となったジュナが、それこそ命をかけて守ったネックレスをジュヒに返そうとする場面があります。ここではさすがに熱いものがこみあげてきました。とくに、ジュナがジュヒの顔をなでるところ、愛するジュヒの顔をその手のひらでしか確認できない姿は、やはり涙なしには見られないところです。

さて、現代のジヘの恋はどうなったでしょう。

ある日、ジヘは偶然の通り雨で大きな木の下で雨宿りをしています(ここで気づきましたが「偶然」とか「大きな木の下」ってクァク監督は好きなんですねえ)。すると、やはり傘を持たないサンミンが”偶然”にもジヘの雨宿りしている木の下に入ってきます。2人きりになって、どぎまぎするジヘ。彼女は、とっさに雨の中を飛び出そうとします。が、サンミンに呼びとめられます、「どこへ行くの?」。

結局、一緒に図書館まで彼の上着を傘にして送ってもらうのですが、ジヘの弾む気持ちが、道にはじく雨だれのようすや、2人の足の動きによくあらわれていて、これもまた印象的で美しいシーンの一つとなりました。

さて、忙しいですがここで過去にもどりましょう。ジュナは、ジュヒとの再会の喫茶店で、実は自分はもう結婚した、と告白します。ジュヒは驚きますが、その場を取り繕うために、聞いて知っていたわ、とうそをつきます。やがて彼女はテスと結婚するのですが、3年後にジヘを産むことになります。

                  ・・・・・・・・・・・・・・・・

ところが、ジュナは実は結婚してなかったのです。

そのことが、ジュナの死んだのちにわかります。それは、遺言によって彼の所持品の一部をジュヒに渡しにやって来たジュナの友人たちから知らされるのです。この辺は、ちょっと不自然さがないでもないのですが、まあ許される範囲でしょう。いずれにしろジュヒは彼の死を聞き、泣き崩れます。傍らには幼いジヘがいて、その様子をじっと見ています。それは、ジュナとジュヒの2人にとって思い出深いあのホタルとたわむれた川のほとりでの出来事でした。

さあ、いよいよ大団円です。

現代のジヘです。図書館へ送ってくれたあの日のサンミンについて、ひょんなきっかけからある事実を知ることになります。実はあの日、サンミンは傘をほんとは持っていたのです。それなのに、傘を持たずにサンミンが雨宿りしにあの木の下にやって来たのは、ジヘに近づく口実のためだったことを知るにいたります。サンミンの本当の気持ち――実は彼が好意を抱いていたのはスギョンではなくジヘであったことにジヘは気づきました。そして、それがそのとおりであることをサンミンに告白されたのです。めでたし、めでたし。

しかし、クァク監督は、このままでは終わらせないんですねえ。どうも、この監督は最後にどんでん返しというか、意外な展開を持ってくるのが大好きのようです。まあ、それも魅力には違いないんですけど(映画好きの方なら、とっくに気づいているのかもしれませんが)。

ジヘとサンミンは、ジュナとジュヒの思い出の川のほとりを散歩しています。そして、ジヘは、日記で知った母の初恋物語をサンミンに聞かせたようです。それは、あのネックレスの件も含めて。そういう母の思い出の川なのだ、ということをサンミンに語り聞かせたのでしょう。

ラストシーン。話を聞き終えたサンミンは、なぜか鼻をぐすぐす言わせています。どうやら少し泣いているようです。――えーっ? いくら好意を寄せた女性の話に合わせるにしても、随分とおかしいんじゃない? 大の男が、好きな彼女の母親の初恋話を聞いて泣きますか? まず、あり得ません。では、なぜサンミンはうっすらと涙したのか。

それが、次のシーンではっきりします。

サンミンは、自分の首もとから静かにネックレスを外し、それをジヘに差し出したのです。そう! オ・ジュナがベトナムで盲目にまでなりながら守り抜いたあのネックレスです。

「えっ、うっそー! なんじゃこれっ、ちょっとできすぎじゃないの!」

と思いつつも、ぞくっとしてしまいました。そのネックレスをジヘの首にかけると、あの36年前と同じ木の橋のたもとにジヘとサンミンはいます。そして、ホタルとたわむれ……。

いやあ、きれいな映画でした。感想を述べるつもりがすっかりあらすじになってしまいましたが、振り返って述べているところがおおむね私の気に入った場面ということでお許しを。

この映画を見てから、ソン・イェジンを大きく意識するようになりました。チョン・ジヒョンとはまた違った意味でのうまさを持った女優さんですね。オ・ジュナ役のチョ・スンウも印象的でしたし、テス役の役者――よく転ぶ(笑)――もそれぞれいい味を出していたように思います。

さて、最後にこの映画でわからないことが2つあります。

一つは、冒頭の場面でジュヒが読み始めた日記は誰の日記なのでしょうか。

最初は私も普通に母・ジュヒの日記かと思っていました。しかし、最後まで観ると、オ・ジュナは死んだのちにジュヒに遺言で箱を渡します。どうもその箱は、ジヘが押し入れから見つけた母の思い出の箱のようにも思われます。つづられる物語は母の日記によるものだと思っていたのですが、ひょっとしたらジュナの日記内容が含まれる可能性もあるのではないでしょうか。つまりジュヒとの恋心をつづったジュナの若いころの日記ということです。でないと、ジュナとテスとのやりとり――男同士のやりとりを、あそこまで詳しく描けないのではないかと。オ・ジュナの遺品はネックレスと思ったのですが、そうではなかったわけです。それでは、何をジュナはあの箱に入れたのでしょうか。私には謎です。

もう一つは、監督のコメンタリーを聞いていたら、テスが最初にラブレターの代筆をジュナに頼むとき、ひょっとするとジュナの首にかかっていたネックレス――これは、テスの父親がジュヒに贈ったものですが、それに気づいていた可能性を否定しないと語っていました。そういう見方が可能なのかどうか。

ただ確かにジュナが思い切って、テスに「俺をなぐれ、俺はおまえの許嫁のジュヒとひそかに交際していて、このネックレスは彼女からもらったんだ」と白状したとき、テスは背中を見せたまま「そのネックレスはやばい。なぜなら、父親がジュヒさんに贈ったものだから」と言っています。つまり、振り返りもせず、オ・ジュナのネックレスを確認もせずにこう言ったのですから、もうジュナのネックレスには気づいていたというふうに理解できます。果たして、テスはいつジュナのネックレスに気づいたのか、これも謎です。

皆さんはどう考えられましたか。

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2006年2月21日 (火)

『彼女を信じないでください』

『彼女を信じないでください』は、韓国映画にはまってから3か月目に出会った映画です。最近は、さすがに韓国映画といってもいつもおもしろいものに当たるわけではありません。たとえ評判がよくても、自分には合わない映画もあるからです。

例えば、割と好ましく見た『子猫をお願い』のペ・ドゥナが相当に気合いを入れて出演したとか評判の『吠える犬は噛まない』。最初の20分くらいはおとなしく見ていましたが、その後はどうにも嫌気がさして、DVDの手軽さ――早送りです。気になりそうなところだけ見てもうほとんどザッピング状態でした。そして、後半のマンションの屋上から犬を落とす?シーンを見た途端、もう後はいいや、とそこで見るのを打ち切りました。一部の評価は非常に高い映画のようですが、私には生理的に受け付けられないテーマだったということでしょう。

さて、そんな中この映画は久しぶりに最後まで落ちついて見られた映画でした。というか、最後まで落ちついて見られた映画ということは、私にとって合格の映画ということになります。

とにかくおもしろかった、というのがまず一言目の感想です。

女詐欺師の仮釈放中の出来事をおもしろおかしく見せて、そして最後にはちゃんと恋の成就が予感されています。終わり方も後味がよく、リフレッシュ効果は十分にあったように思います。先日、チョン・ジヒョン目当てで見た『四人の食卓』によって、すっかり後味の悪い思いをしていたところだったので、なおさらでした。そういう意味では、口直し効果もあるような気がします。傑作とまでは言えないにしろ、佳作とは言えそうな、そんな作品です。

ところで、この映画は『猟奇的な彼女』(感想はこちら)よりおもしろいと宣伝されていたそうです。しかし、最初に見ての感想では、おもしかったことは認めるけれど、さすがに「猟奇的」には勝てないなあ、というのが正直なところでした。それは、今でも変わりません。

とは言うものの見た翌日から、「もう一度見たい」という欲求が出てきたのには驚きでした。いつもツタヤで借りて見ていますが、ついにDVD、それもデラックス版を購入してしまいました。そしてなんと3夜連続で見てしまったのです(笑)。

なぜか。

結論から言うと、映画全体の雰囲気が実に温かい、その一点に集約できそうです。主役2人ももちろんよかったのですが、何しろ主役以外の脇役がものすごくいい、これに尽きるのではないでしょうか。

ここからネタばれありです。

 

認知症のおばあちゃん、いかにも家父長制にふさわしいヒチョル(カン・ドンウォン)の父、早とちりで人のいい妹などはもちろん、2人の叔父にあたる警官、タクシー運転手――この運転手の最初の登場シーンの顔は、ちょっと忘れられません。それくらいいやらしい顔でした(笑)。昔、山上達彦という漫画家の描いた『新喜劇思想体系』に、いつも和服を着たおかまが出てくるのですが、そのおかまの目にそっくりです。そして、その妻たち。さらに忘れる無かれ、近所のおばちゃんたちの面々。何回も見れば見るほど、みんな自然な演技で一人ひとりを見ていくだけでも飽きさせません。結果としてとても温かい田舎の人々が生まれていたのです。

面白かったのは、心ならずも仕方なしにつくはめになった彼女のうそにもかかわらず、次々とそれらのうそに真実味を与える偶然の出来事が重なっていったことです。例えば、病院で逃げ回っているうち、つい産婦人科の診察室に入ったばかりに、いつの間にか妊娠していることになってしまいました。そして、ヒチョルを囲んで車座になり、ことの真偽をわきまえようと一族で話し合うあのシーン。ここでは、ヨンジュ(キム・ハヌル)が初めてヨンガンの町に降り立ち、ヒチョルのことを尋ねた店のおばちゃんたちから聞いた話がうまい伏線として生きてきます。この辺のストーリーの運び方は、どたばた喜劇じみてはいるものの、なかなか巧妙な脚本力を感じさせました。キム・ハヌルの詐欺の演技も、もう少しで笑いそうで――事実、メイキングでは、「カット!」の声の後ゲラゲラ笑っていましたが、見ているわれわれも思わず噴き出してしまいます。

ということで、今回この映画で処女作メガホンを執ったペ・ヒョンジュン監督には大いに注目しました。監督はインタビューに答えて、こんなことを言っています。ストーリー展開の自然さをかなり意識してつくったとのこと――これは私の映画を見る際の最も重要なポイントです。そして、説明的なシーンはどんどん省いていったこと。この発言を聞いただけで、私の好みの監督であることを強く感じました。名前も例のペ・ヨンジュンに近いのですぐに覚えられます。今後の作品に注目したいものです。

主役の2人についても少し述べておきます。

キム・ハヌルについては、テレビドラマ『ハッピー・トゥギャザー』が初めてでした。そのときには、「何だか、青木さやかにちょっと似ているなあ」とか「あ、でも、全体的な雰囲気はテレビ朝日の大下アナウンサーにも似ているかも」などと感じていました。特別、演技力や容姿に興味を抱くことはなかったのですね。今回、興味を持って調べてみたら、『同い年の家庭教師』にも彼女が主演で出ていたことがわかりました。あの映画も見ましたが、私にはつまらなかったので余り印象に残っていなかったのです。つまり、この『彼女を信じないでください』を見るまではほとんど気にしたことのない女優さんでした。

本作では、彼女の本来持つ明るさというか、恐らく今まで出したくてもなかなか出せなかった彼女のノリのよさみたいなものが全面的に出し切れていたのではないかと思います。はじけたその姿の心地よさが、見る者にも十分伝わってきていました。中には、彼女のこの演技が大げさでわざとらしい、と感じる向きもいらっしゃるようですが、私には問題なく感じられました。コメディは、割にデフォルメした演技でも十分受け入れられるように思います。

ただし、カン・ドンウォンの演技には疑問がないでもありません。とくに家から薬局に追い出されたとき、訪ねていったヨンジュと話し合うシーンがあります。彼の表情は、さっき彼女のうそから追い出される羽目になったにも拘わらず、もう馴れ合った表情になっていました。そのうえ、なぜか彼は必要以上にやたらと目を剥くので不自然この上ありません。もう少し、あの場面ではヨンジュに悔しさや敵意を見せるくらいのほうが自然ではなかったかなあ、と思います。

とはいえ、彼の演技もまずまずと言っていいでしょう。特筆ものは、ヨンジュがヒチョルの妹スミに尋ねられてでっち上げた、想像上での2人の出会いのシーン。あのキザで気持ちの悪い男は傑作でした。とくに、最後に息を吹きかけるところ――こんな男はいないだろうという演出ですが、しかし嫌みなく演じられたのではないかと思います。また「Mr.唐辛子」の場面でも、いやいや出たのにヨンジュの演出に次第に乗せられ、すっかり調子こいた演技は、その素人っぽさを残しながらもだんだんその気になっていく様子がうまく演じられていたように思います。

最後にもう一度。この映画のよさは、やはり主人公の2人を取り巻くヨンガンという田舎の人々のつくり上げた雰囲気全体にあるのではないかと思います。

今後出るであろうキム・ハヌルの次の喜劇に、そしてもちろんペ・ヒョンジュン監督の次回作に大いに期待します。

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2006年2月20日 (月)

『猟奇的な彼女』

caution :以下の記述は、めちゃくちゃネタばれしています。まだ、映画を見ていない人は読まないことをお薦めします。

『猟奇的な彼女』を見てから、遅ればせながらついに韓国映画にはまってしまいました。

いちばん初めに見たときには、まずあのゲロ吐きシーンにびっくり。すごい掴みをするなあと、あっけにとられつつすぐに引き込まれていきました。

そして、次々に繰り出されるシーンの連続。とにかく追いついてストーリーを理解することに集中していました。しかし――途中で、とてもだれてしまいました。

原因は、あの未来人の物語です。見ているこちらとしては、早く2人の関係の展開を続けてほしいのに、こんなくだらないシーンで時間をつぶすなよ、というのが正直な思いです。そのうえ、それに輪をかけたような彼女(チョン・ジヒョン)の誕生日のシーン、あれはなんでしょうか。花火を上げるつもりで遊園地に誘ったのはいいとしても、ずいぶん唐突に、しかもなぜかここに脱走兵がいるではありませんか。何でこんなシーンが必要なんだ? とちょっといらいらした記憶があります。

後半戦からは多少趣も変わったせいか、前半戦では一体何を考えているのかわからなかった彼女の――いや何であれほど男を殴りまくるのか一向にわからなかった彼女の背景に、なにやら悲しい出来事を暗示するような気配も出てきて、それなりにまた引き込まれていきました。

おもしろかったのは、見合いを強要された彼女が母への仕返しにキョヌ(チャ・テヒョン)とデートするシーン。彼女がノーパンで走り逃げるとき、靴を交換してハイヒールをはかされたキョヌが立ち尽くしています。そのとき彼女に浴びせられる言葉、「追いかけてこないとぶっ殺すよ」。これには思わず爆笑してしまいました。そういえば、ここの場面の音楽はレンタルDVD版のほうがよかったと思います。後で述べるディレクターズカット版DVDの音楽も悪くはなかったのですが、映画版のほうがよりマッチしている気がしました。

さて、あの山のシーンです。彼女が「ごめん、キョヌゥ~」と叫ぶやつ。これにはストーリー展開もさることながら、チョン・ジヒョンの演技力に圧倒されて思わずホロッとしたものです。

そして、この後の展開は一気呵成に収束します。

最後の叔母から紹介を受けるシーン、これには全く意表をつかれました。「ああ、あのおばさんの紹介したい人って、”彼女”だったのか」と。思わず絶句です。ハッピーエンドには違いないのだけど虚を突かれた分、ここでグーンと感動が高まったような気がします。そして、映画の冒頭にあんな伏線があったんだ、と感心することしきりでした。

                     …………………

最近、ディレクターズカット版のDVDが出たので購入して見てみました。

いやあ、なかなかこのクァク・ジェヨン監督、いろいろ考えてつくっているんだなあ、と。ディレクターズカット版(以下D版と言う)なので、20分ほど映画より長いのですが、その中にわれわれが想像でしか補えなかったあれこれがきっちり描写されていました。

例えば、彼女をホテルで介抱しているときにキョヌがしみじみ眺めるネックレス。これは、亡くなった彼氏からもらったもので、映画の最後のほうで湖にそれを投げ捨てるシーンが追加されているのですが、このシーンは残しておいてもよかったかもしれません。ただ、このネックレスにまつわる話にこだわると、もう1つ追加しなければならないシーンが出てきます。例の喫茶店での見合いの席にキョヌが同席する直前のシーンです。これはD版にしか入っていません。

彼女とつき合うためにしてはいけない「十戒」(と呼ぶそうです)を、キョヌが見合い相手の男に語るシーンがありますが、実はあの前に、キョヌは一たん彼女を喫茶店の外に連れ出します。そして、彼女に対する忠告をいわば「裏十戒」(つまり、お酒は3杯以上は飲むなとか)として語り、そこで少しネックレスの件にふれるのです。「見合いするときに、過去の男からもらったネックレスをしていくのは失礼だよ」と。ただ、ここのシーンは割に長いので、そこまで入れるとちょっと全体に冗長になりますから、恐らく入れなかったのでしょう。

その他のシーンはむしろなくて正解だった気がします。とくに糞尿回収車(日本でいうバキューム・カー)に、彼女の乗ったタクシーがぶつかるシーンなど、「ゲロに続いてまたかよ、きったねえなぁ」と思わず趣味の悪さに眉をしかめたものです。

だいたいこの監督は、やはり好きな作品の一つである『ラブストーリー』でも、牛のうんちに隠れる「フンコロガシ」を捕まえるシーンや、おならの演奏(これには笑いましたし、好きなシーンではありますが)や、検便のため道端で便をすくうシーンなど、どうも一種のスカトロ趣味があるようです。見る人によっては小首をかしげる人も多いと思うのですが、彼の美意識が高まれば高まるほど、ある意味でのバランス感覚からこういうものが必要になってくるのでしょうか。不思議です。

まあ、D版ではいろいろなことがわかりましたが、作品としてはやはり観客の想像力にゆだねる部分を多くした劇場映画版のほうがはるかにできがいいことがわかりました。

D版では監督のコメンタリーが付いていて、初めてわかったことがあります。あの山の木の下で彼女が会った老人は、未来のキョヌだったことです。というか、正確には「そういうふうに見てくれてもいい」と監督は言っていました。そういう可能性を考慮して、あの老人の唇を、できるだけチャ・テヒョンのそれに似せようと厚ぼったくメイクしたと言っています。だからこそ、最後の再会するシーンで「あなたの未来に会ったような気がするわ」という彼女のせりふが成立するわけです(このせりふはD版を見るまでは、何回聞いても意味がよくわかりませんでした)。

ついでにこれに関してもう1つ言うと、これは有名な話らしいですが、山の上でキョヌの手紙を読み終えた彼女の背後の上空には、1機のUFOが飛んでいます。私は、1回目に見たときには全く気づきませんでした。未来人キョヌ老人を運んだUFOなのでしょうか。

つまり、未来人がちょっぴり介入したかもしれない、そんな恋愛映画という側面もあったことになります。したがって未来人のシーンは、それなりに必然性を持っていたということになりそうです。まあ、何となく納得させられた気はしましたが、なんだかねえ。つじつまが合っているのはわかりましたが、やはり余計なシーンという気分は否めません。

もっとも、そうすると彼女と同じ誕生日の脱走兵との遭遇物語は一体何の伏線なのか。こういう疑問も出てきます。コメンタリーでは、残念ながらこの謎についての監督の説明はありませんでした。しかし、この監督のことですからきっと何か企むところがあったに違いありません。私には狙いがわからなかったのですが、どなたかわかる人がいれば教えていただきたいものです。

さて、いろいろと不満のシーンがあったにもかかわらず、それでもこの映画はおもしろかったのです。それは一体なぜでしょうか。

第一に、主人公の彼女の「猟奇性」――つまりものすごく変わっているキャラクターそのものにまず求められそうです。華奢で長い髪をなびかせる姿からはおよそ似つかわしくない、ゲロ吐き、3杯の酒で酔いつぶれる不用心さ、自分の思うようにいかないとすぐに「ぶっ殺す」とすごむ口癖、そして平気で男を殴る。おまけに、変に正義感ばかり強くてちょっと手に負えない感じです。

しかし、それらと後半「ごめんね、キョヌ~」のシーンに代表される彼女のせつない心情とのギャップ! これだけで、変な女だけど結構かわいいとこあるじゃん、と私は思ってしまったのですから、まあ監督からすれば思うつぼでしょう。

第二に、キョヌのキャラクターにも大きく負っているように思います。あのような猟奇性を持った彼女に対応できるのは、まずこのキョヌくらいしかなかったでしょう。そう思わせるに十分なキャラ立てでした。そして、最後の最後でキョヌのいとこが彼女の亡くなった恋人だったことがわかることによって、相性がいいのも当然だ、と妙に納得させられるのです。

第三に、これは監督によるものが大きいのですが、原作のインターネット小説(私はもちろん読んだことも調べたこともありませんが)の奇妙な2人の恋物語を、「偶然」というキーワードで展開して見せたところにありそうです。かの老人の言った「偶然とは努力した人間のみに与えられる架け橋である」とは監督のオリジナルだそうですが、このメッセージを伝える映画としたことによって、単なる恋物語に終わらせない独特の味わいと余韻を残す作品になったのではないでしょうか。

最後に、この映画の成功は監督はもちろんですが、チャ・テヒョンとチョン・ジヒョン、この2人が特にすばらしかったんだなあ、と思います。

殴られるシーンが多いのに余りそれを気にしないで見られたのは、チャ・テヒョンの殴られる演技がとてもいいからでしょう。なにやら漫画的というか喜劇的に殴られているので、あまり悲惨さが出てこないんだと思います。

そして、やはりチョン・ジヒョン、この人はすごい。キョヌを殴るときの彼女のあの大きく目を剥く表情は爆笑ものでしたが、全編を通じて思い切りのいい演技はいっそ通快でしたし、確かな演技力を感じさせました。実は後日見た『イルマーレ』(感想はこちら)で気が付いたのですが、声もすごく魅力的で、なかなか響きのいいアルトの持ち主です。すっかりファンになりました。彼女の出演映画は全部見るつもりです。

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