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2006年4月18日 (火)

『花とアリス』

『亀は意外と速く泳ぐ』(感想はこちら)で好演していた蒼井優の映画も観てみようと『花とアリス』を借りてきました。なんだか、この映画もばかばかしくておもしろい映画でした。もっとも、カメハヤとはかなりばかばかしさの質も方向も違うのですが、とにかく楽しめました。とくに脚本のおもしろさは絶品な気がします。岩井俊二監督の名はよく聞きますが、なるほど評判どおりの才能ある監督のようです。

以下ネタばれ

この映画の導入部にあたるおもしろネタは、あこがれの先輩・宮本雅志(郭智博)を「引っ掛ける」ために花(鈴木杏)がついたうそ、「記憶喪失」です。こういう展開は原則として無理があるのですが、気を失った後自信満々に他人に言われると案外そういうものかも、とふと思わせるところに工夫を感じさせます。それでも正常かどうかぐらいは自分でわかりそうなものだろうって突っ込みたくなるのですが、これさえ了解すれば次からの展開は楽しく見られるわけですから、ここは肚を決めて私も楽しむほうを選択することにしました(笑)。

さて、花の作戦が当たったのはいいけれど、いろいろな事情ができてアリスまで巻き込まれます。そんなころ、たまたまアリスの入ったファストフード店に、ジャーン、突然相田翔子登場! それも阿部寛とカップルで。なに、この人? と思う間もなく、アリスに向かって「花ちゃん、さようなら」って。それも、くどいぐらい。で、ついにアリスは帰ってしまったじゃん! えっ、何で?

ややあってアリスが帰宅して料理をしていると、ここでまたなぜか相田翔子がドア口で「ただいま」。びっくりです! え、ひょっとして姉ちゃんか? その相田にアリスが呼びかけます、「かあちゃん」って! いやあ、これは意表をつかれましたねえ。そういうことかい(でも相田翔子が母親って何だか違和感あるねえ)。

ということは、あの場面、阿部寛とのデートの現場では娘と一緒にいたくないという気迫のこもった「花ちゃん、さようなら」っていうことだったわけですね。うーん、アリスがかわいそう~。おまけに相田翔子は、最初外で食べてきたから夕飯のすき焼きはいらないとか言っておきながら、アリスに「肉はわたしが食べるから一緒に食べよう」と懇願されると「せっかくだから、お肉が食べたいかな」って、あんた、どういう神経(笑)? (でも、個人的に相田翔子さんは好きなタレントさんなのでOKですけど(^^;))

それにしても、一緒にすき焼きを食べる次のシーン、アリスが母に向かって曰く「君も大人なんだし、恋愛はちゃんと結婚を前提にしてくださいね」って。これが母と娘の会話か?
そしてとどめを刺すかのように、食後に新聞を読みながらつぶやくアリスの次の一言。

「あっ、円がまた下がった」

って、この娘はおっさんかい(笑)。というか、こういうボソッと漏らす一言ってこの蒼井優はうまいねえ。

この一言について、「裏の窓から眺めてみれば」の作者・谷川さんからコメントをいただきました。この「円が下がった」は、父と別れ母と2人で暮らした何年分ものアリスの想いがこもっている、との指摘です。そう言われてみれば、恐らく貿易商社マンであろう父親は、アリスの小さいころには新聞を読みながら、為替変動のニュースをひとり言のようにつぶやいていたのでしょう。そういう風景をまねするでもなく、いつの間にか自分も同じことをしている姿なのかもしれません。そう考えると確かにちょっと味わいのあるシーンと言えそうです。

この映画は、冒頭でも述べたように脚本がおもしろいんですね。女子高生どうしの会話とかも、言うなればコント仕立てで……。でも、なんというのでしょう、ふざけきっているのでもなく、かといってもちろんくそまじめなわけでもない、いわく言いがたい独特の軽さがあります。私のようなロウトルの入った世代には不思議な軽さ、です。この映画を見てから気がついたのですが、韓国映画や古い日本映画とは違う新しい気分というか、今までにはなかった文化の質の転換みたいなもの――映画文化における重厚長大から軽薄短小化みたいなものが、カメハヤなども含めて最近の日本映画に生まれつつあるのかなあなどとも感じたりしています。

それはともかく、これはおもしろい、ということでDVDを購入しました。それも、特別版というやつ。3回ほど繰り返し見たり、特典のメイキングやショートフィルムを見たりして感じたのは、最初とはまたちょっと違った感想。余談ですが、DVDのおかげで巻き戻しの手間がないことや飛ばし見が簡単なことから繰り返し見ることがふえたのですが、繰り返し鑑賞すると最初には気づかなかったことが結構いろいろ発見できます。気に入った映画は繰り返し見たほうがお得のようです。

で、最初に見たとき、この映画の中心テーマはどこにあるのだろうという漠然とした問題意識がありました。会話がおもしろかったのでそれだけで満足し、あまり深く考えなかったですが、まあ、花の恋のいきさつとその展開を通じて最も多感と言われる女子高生世代の友情や恋についての日常をおもしろ可笑しく映し出しているとでも言うのでしょうか。あるいはまた、花とは違った道を歩み始めるアリスのタレント挑戦の日々を並行して映し出すことによって、少しずつ大人になるということを受け入れていく姿をもとらえているといったところかもしれません。いずれにしろ、最初見たときの印象はそういうたぐいのものでした。そして、何より2人のまるでコントのような会話と演技を非常におもしろく感じたのです。

ところが繰り返して見てみると、だんだん違うポイントにも目がいくようになりました。この映画の中心が私には、アリスの追憶――つまり、かつてあったであろう親子3人仲よく過ごしていた時代への追憶とそれに伴う父親への追慕にあるのではないかと思われたのです。

これは、恐らく監督の意図しないものでしょうし、これを観た多くの人々もこの意見に同意する方はほとんどいないと思います。ただ、父親役の平泉成とアリスこと蒼井優の絶妙な演技によってぐいぐいとこの2人の間に通い合う父娘愛の姿に引き込まれてしまったのです。そして、ついにはこの映画のクライマックスは、花が先輩に帯を締めてもらいながら泣いて謝るシーンでも、アリスがオーディションでバレエを美しく踊るシーンでもない、あの浜辺で偶然先輩が拾ったハートのエースが、過去にアリスの家族3人で仲よく遊びに行ったときのものだと気づいて泣き伏したシーン、あのシーンにあるのだと思うようになったのです。

ですから、父親とアリスとのデートのシーンはなかなか味わいのあるものでした。特に私が好きなシーンが2つあります。

1つは、ケータイを拾うシーンです。父娘がゆっくりと公園の橋を右手に向けて渡りながら、父は落とし主に返すためケータイを派出所に届けることを宣言します。橋を渡りきった2人の姿は、とうとう映像画面の右手に消えてしまいます。それでも画面自体は2人のいない橋を映したままです。やがて「何かいいことしたなあ」と父親の声。――ややあってアリスの「はっはっ」という小さな笑い声。

絶妙でしたね、蒼井優のこの小さな笑い。その笑いはとても平凡なものでしたが、私にはこんなふうに聞こえました。

「中国語をしゃべれるってすごいな、パパ」
「『いいことしたなあ』って、それじゃあ子どもじゃん、単純! ばっかみたい」
「でも、そういうとこが好きかも」

これぐらいのアリスの心の声が聞こえた気がします。そして、平泉の何とも言えない温かみ。アリスはこの父親が大好きなんですね(心太(ところてん)の話から想像するに、どうやら別れてから父を好きだったことに気がついたようです)。

もう1つ好きなシーンは、電車で別れるとき。アリスが冗談めかして「ウォー・アイ・ニー」と呼びかけるとそれに応える平泉のせりふがいい。「ああ、そういう時はね、ツァイチェン(再見)、また会いましょう」。父親の、恐らくはうれしさを隠しながらも、至極当たり前の父親としての愛が感じられるシーンでした。

ついでに言えば、2人の場面では終始、父親が娘にあれこれと自分の経験や感じたことを饒舌に語っています。微分積分や漢文の話を一方的に平泉が話しているのを、一見気のなさそうにアリスが聞くでもなく聞いているシーンがあります。でも、後で先輩とのデートシーンでわかるようにアリスはじっとよく父の話を聞いているんですね。これは、とてもせつない、いとおしくなるようなシーンでした。

そして、あのシーンがやってきます。先輩と心太(ところてん)を食べるシーンです。このシーンは最初見たときにも、とても印象に残っていました。それは、まず先輩の記憶喪失のうそがばれてしまい、蒼井優が鼻をつまんで「ごめんなさい」という姿がとてもかわいらしかったからです。しかし、それだけではありません。その後、先輩の差し出したハートのエースを見たとき、アリスは最初笑顔でびっくりしていたのに、すぐさま「ちょっと、ごめんなさい」とテーブルに泣き伏してしまい、この映画では初めて「軽さ」のないシーンとなったのでなおさら印象的だったのです。そして、先にも述べたようにここがこの映画の中心であると、私はいま感じています。

最後に追記したいことが2つ。

・風チャンという文化祭で写真展を開くバレエ仲間がいました。彼女はとても印象に残りました。「けんかしちゃ、だめだよ~」って、あの声であの言い方だと何も抵抗できないですね。

・それから、これは苦言を一つ。最後の花が先輩に泣いて謝るシーンとアリスがオーディションでバレエを踊るシーンはいずれも長すぎるのではないでしょうか。半分くらいにしてほしかったなあ、というのが正直な実感です。ついでに、この映画自身もちょっと長過ぎの気がしますがどうなんでしょう。私は、90分から100分くらいの長さが見やすいと感じています。

総じて、この映画では蒼井優の演技力がとくに目立ちました。主役の鈴木杏もなかなかうまかったと思いますが、蒼井の演技にはなにか天性なのか、努力のたまものなのかはわかりませんが図抜けたうまさみたいなものを感じたのです。『亀は意外と速く泳ぐ』では、こんなにうまい役者さんだとは思っていなかったのでちょっとびっくりしました。上野樹里といい蒼井優といい、日本の役者にもかなり有望な俳優が出てきつつあることをうれしく思います。

韓国映画もすばらしいのですが、こうやって日本映画の若い監督作品を見てくるとやはり日本の映画もどうしてどうしてすぐれた作品が多く出てきているんだなと、今後にとても期待感が持てました。とくに新しい映画文化の流れ――多分、キーワードは”透明な軽さ”、それは戦後高度成長を支えた日本人にある生まじめさやガンバリズムを昇華した姿なのでしょうか?――をどうやら日本の若い監督たちが着実につくっているような気がします。そういう意味で日本映画の今後を楽しみに見ていきたい、そんな思いを強くした作品でした。

                    ………………………

レビュー紹介

● 私がその洞察力や鋭い感性にうならされたり、よく細かいところまで観ているなあと感心したこの映画に関するブログ、レビューのご紹介

      ・乱暴者日記
      ・くびれと腹筋日記
      ・裏の窓から眺めてみれば
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2006年4月11日 (火)

『八月のクリスマス』(韓国版&日本リメイク版)

韓国版『八月のクリスマス』の感想

(日本版リメイク『8月のクリスマス』についての感想はこの感想の後にあります 

以前から評価の高いこの映画のDVDをようやく私の利用しているツタヤでも置くようになりました。早速借りてきて、いま見終えたところです。

まず一言感想を述べると「韓国映画にしては随分と抑制の効いた映画だなあ」というもの。どちらかというと何でもずばずばとはっきりさせる傾向の強い韓国映画にも、このような抑制美を追求した作品のあることには驚きです。むしろ抑制美は日本の十八番(おはこ)かと思っていたものですから……。

ハン・ソッキュとシム・ウナの名前は何回か聞いたことがあったのですが、初めて名前と顔が一致しました。ハン・ソッキュはとても声がすばらしい。シム・ウナも美しい女優でしたし、とくに後半のトイレで泣くシーンでは演技力の確かさを感じさせてくれました。

抑制された作品ということで、とてもせりふは少ないですね。せりふでなく、状況と演技で登場人物の心境を映し出すという手法です。やはり説明的でない分、ちょっとどういうことなのか考え込んでしまったところもありましたが、DVDの強み、疑問のシーンを何回か見直すことによってまず何とか理解することができたように思います。

ストーリー自体は、ある小さな町の写真館の若主人ジョンウォン(ハン・ソッキュ)がたまたま現像依頼に訪れた若い婦人警官タリム(シム・ウナ)と暑い盛りの夏(恐らく八月)に出会い、やがて芽生えた2人の淡い恋を描いたもの。

(以下ネタばれあり)

この映画には幾分変わった設定があります。主役のジョンウォンは不治の病にかかっており余命幾ばくもなく最後には死んでしまいます。まあ、これはよくあるパターンかと思いますが、相手役であるタリムは、そのことを知らないまま映画が終わるのです。その点には大きな意味があるのですが、まさにそこからくる抑制された美しさが最後まで一つのトーンとしてつらぬかれています。

映画の冒頭ではいかにもありふれた写真館の主人なのですが、シーンを重ねるにつれて少しずつ死を目前とした人間とはどういうものなのかが淡々と映し出されます。また彼の父や妹の見守る姿、そして友人たちのさりげない配慮などもこまごまと描かれていきます。そうすることによって、しだいにジョンウォンの病の不治性が観客にはっきりわかってくるのです。そして、皮肉にもちょうどそのころタリムとの恋はピークを迎えます。

しかし、上にも述べたようにタリムは一切彼の病気については知らないままです。

楽しい遊園地でのデートの翌日、写真館は突然休業しました。と時を合わせるようにタリムの人事異動が決まります。せりふがないのでここからは想像でしか彼女の心を埋めるしかないのですが、楽しいデートの翌日から店を閉めたきり消息不明の彼にいらだちを感じているようです。そりゃあ、彼女にしてみれば転勤の話もしたいでしょうし、この際2人の恋の行く末についてもある程度はっきりさせたかったことでしょう。手紙を書いて店に投げ込みます。

同僚による送別会でも楽しめずジョンウォンのことばかり気になるタリムは、事情を知らないだけに1人トイレで手を洗いながら悔し泣きします(ここのシム・ウナの演技は出色のできで、手に取るように彼女の気持ちが伝わります)。その帰り道、いつものように写真館の前に行くと、ついに腹を立てて店のショーウインドウに石を投げつけ、ガラスを割ってしまうのです。全編静かなトーンのこの映画において、唯一と言っていい激しいシーンです。だからこそ、彼女のやるせない恋情を見事に映し出しています。それでも、この一連のシーンでせりふは一言もありません。

一方、休業した翌々日から入院したジョンウォンは、いよいよ死に近づきつつあります。
やがて何とか退院して店に戻った彼は、タリムが店に投げ入れた手紙に気づきます。何と書いてあるのか一切説明的なシーンはありません。ただ読み終えたジョンウォンは、すぐに机に向かって返事を書きます。しかし、その返事の手紙は、彼女からの手紙と彼女を撮ったポートレート写真と一緒に手箱に入れられ整理棚にしまい込まれるのです。そう、彼女に返事を送ろうとはしません。――なぜでしょう?

ついで、ジョンウォンは警察署に行き、彼女の異動先を聞き込んだのでしょう、ある街のコーヒーショップの窓辺の席にいます。すると、彼女と同僚を乗せたミニ・パトカーがやってきて、駐車禁止違反車両のチェックをしている様子がうかがえます。彼はというと、窓からその様子をじっと眺めているだけです。コーヒーショップを出ればタリムもすぐ気がつくでしょうに決して会いに行こうとはしません。――なぜでしょう?

目前に死を迎えようとしているジョンウォンにとって、彼女からの手紙――恐らく彼への恋心を感じさせるものだったはずです――をもらったことは、とても意外な出来事でした。死を間近に迎えようとする人間に新しい恋など、まずあり得ない話だからです。だれしもそんなことは考えられません。しかし、たまたまこのタリムとの交流だけは、ジョンウォンの病について明かされないままのものでしたから、死を直前にしながらも「いま現在の恋」が成立してしまったのです。それは、彼にとっては思ってもみなかった贈り物でした。そう、彼にとって8月のあの暑い日――友人の葬儀に出席して身心ともに疲れ切って帰ってきた日のタリムとの出会いは、たしかに天から与えられたクリスマス・プレゼントだったのかもしれません。

彼が手紙の返事を出さなかったのも、またコーヒーショップからじっと彼女の姿を眺めていただけだったのも、すべてこの”彼女を愛している・彼女から愛されている”と実感できる「今現在そのまま」で死を迎えたかったからです。実際に会ってしまえば自らの病を明かさねばならなくなり、その時点でこの恋は終わりを告げ、過去の「思い出」と化すのですから……。

それだけに、あのコーヒーショップの窓に映るタリムを指で抱き締めるジョンウォンの姿――会いたくてもじっと我慢するしかない姿にはだれもが深い共感と哀感を感じずにはいられないことでしょう。

やがて、最期を迎えるために彼は自分の葬儀用写真をセルフで撮ります。そうして、彼は”無事”自分の最後の恋を「思い出」としてではなく、「今現在のもの」としたまま死んでいくことができたのです。

エピローグです。

冬が来ました。写真館の前の道路も真っ白な雪に覆われています。

休暇が取れたのでしょうか、タリムは写真館の前にたたずんでいます。「外出中」の札がかけられた店のドアを見て、ホッとしたようです。実は写真館はジョンウォンの死後、彼の父が引き継いでおり、先ほどお客様に写真を届けに出かけたところです。しかし、何も知らない彼女にとって、この時点ではまだジョンウォンが生き続けており、ちょっと店を留守にしているだけなのです。店を眺めるうちに、タリムはショーウインドウの一角に自分のポートレート写真が飾られているのを発見します。そして、彼女は満足げに店の前を立ち去ります。恐らく、後でもう一度来れば彼に会えると信じて……。

これで終わりです。立ち去るタリムを背景にして、あのときジョンウォンが書いた返事の文面がナレーションされます(これを聞くと、はじめから生きているうちに返事を出す気はなかったのですね)。

「僕の記憶にある写真のように、愛もいつかは思い出に変わると思っていました。でも君だけは思い出ではありません。愛を胸に秘めたまま旅立たせてくれた君に”ありがとう”の言葉を遺(のこ)します」

うーん、最初なぜ『八月のクリスマス』なのかさっぱりわからなかったのですが、こうやって考えてきたら、なんとかこの題名の意味がわかってきたような気がします。

この映画は説明的饒舌さを拒否する映画ですから、観賞後に余り語りすぎるのは考えものかもしれません。とくに、最後の店の前にたたずんだタリムの心境や、その後に訪れるであろう真実を知ったときのタリムのショック――父親はなぜショーウィンドウにタリムの写真を飾ったかを告げながらジョンウォンの返事を差し出したに違いありません――などを考えると、さらにこの映画の余韻は高まるばかりなのですが、それらは観客一人ひとりの胸のうちに展開して終わらせてね、ということなのでしょう。

それにしても、とても抑制的で静かな、そして美しい映画でした。(4月11日記)

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日本版『8月のクリスマス』の感想

日本リメイク版『8月のクリスマス』がツタヤにあったので早速借りて観てみました。韓国版オリジナルを観てから約2週間経っています。正直に言えば、多分オリジナルよりかなり落ちるんだろうなと思いながらも、まずはお手並み拝見という気分でした。主役の寿俊に山崎まさよし、ヒロインの由紀子に関めぐみという配役です。

結論から言えば、やはりかなり落ちていました。とくに最後の手紙の内容は、もう台なしにしているとしか思えません。あんなに語り過ぎてはこの映画の持つよさがほとんどなくなってしまいます。それ以上に、肝心のオリジナルにあった写真屋の主人の気持ち――ジョンウォンがいちばん大切にしておきたかった心情が伝わるものとなっていないのです。

私の上記感想でも述べたようにこの映画の肝(きも)は、何もかもが「思い出」としてしか残していけない死を間際にした男が、奇跡的にも「今現在進行形の恋心を抱いたまま死んでいける」というところにあります。それは、まさに神様からの贈り物でした。それがきちんと伝えきれていないのであれば、この映画が最も描きたかった核心が再現されていないということになるのではないでしょうか。がっかりです。

また、由紀子が彼の死を知るという描き方もあっていいとは思っていましたが、こうやってそれを映像にしたものを観ると、やはりこの映画の終わりの時点では彼の死をまだ知らないままにしたほうがずっと美しかったなあと感じています。映画のラストシーンで、彼の死を知っていてあのショウウインドウの前にたたずむのと、知らないでたたずむのとではまったく意味が違ってきますし、余韻においては天と地ほどの開きが出てきますから……。

もちろん、日本版がすべてだめだったというわけではありません。ところどころのシーンでは、むしろ韓国版よりずっときれいだなとか、心情がよく伝わる描写だなあと感じたところもありました。

例えば、酔っぱらってけんかしたため連れてこられた警察署で、寿俊が突然「俺が何をした!」と泣きわめくシーンなどはハン・ソッキュの演技よりも、死を前にした心情がよくあらわれていたように感じましたし、相合い傘のシーンも自然で美しいものでした。また、あの葬式用写真を撮り直しに来たおばあちゃんとのやりとりでは、おばあちゃんももちろんよかったのですがそれ以上に山崎まさよしの演技になかなか光るものを感じました(もっとも、おばあちゃんのシーンは韓国版のほうが正装チマ・チョゴリに着がえてくるという分、演出にいくぶん優るものがあったように思いますが)。

そして、忘れていけないお父さん役の井川比佐志。だいたいこういうシーンでは、日本人役者のほうが場なれしているのかもしれません、先に逝くことを覚悟している息子への父親の心情を、広い背中やうつむきかげんの顔で訴えます。何も言うことはありません。

さて、ちょっと首を傾げたのは、由紀子が寿俊に向かって「おじさん」と呼ぶこと。韓国映画の場合は、結構ああいうケースで「おじさん」と呼ぶシーンがほかの映画でもよく見かけますので、それが普通なんだろうと違和感がなかったのですが、日本の場合、これはどうなんでしょうね。今どきの若い娘さんは30歳過ぎの青年にも「おじさん」と呼ぶのかなあ、と不思議でした。もちろん、初対面では現像依頼に行くのですから、例えば「写真屋のおじさん」とか呼びかけることは普通に考えられますが、2回、3回と会えば普通は「鈴木さん」とか「店長さん」とか単に「写真屋さん」とか言うのではないかなあ、などと考えないでもありませんでした。高校生以下の子どもならともかく、臨時とはいえちゃんと職に就いている立派な社会人ですからね。

それから、もう1つ。由紀子の転勤先の小学校を訪ねるシーンがありました。これもあんなに近くに見えるのなら、由紀子のほうだって気づくはずじゃないかなどと考えてしまいました。だって、不審な男がグラウンドから校舎をのぞいてるっていうのはやはりとても目立つんじゃないかなと。婦人警官でなく、職業を先生にしてしまったからある意味仕方のないことではありますが、ちょっと不自然な気がしました。韓国版の場合、ここは駐車禁止車両のチェックをしている婦人警官シム・ウナを道路沿いの喫茶店からハン・ソッキュが見守るという映像で、この姿が非常に感動的であっただけに日本版はかなり見劣りがしてしまいました。

全体的に、この映画のテイスト自体がかなり日本的であるせいか、配役も含めて大きな違和感はなかったように思います。特にしっとり感みたいなものは、韓国版よりもあったのではないでしょうか。そういう意味では決してできの悪い映画とは言えないでしょう。

しかし、この映画の核心に対する解釈が私のものとはかなりずれていたため、どちらかというと興ざめ感が強いというのが正直なところです。私としてはあの核心部分――「いま現在の恋にいるまま静かに死を迎える」をどのように伝えるか、いかに演じられるかが最も観たかったポイントでしたから……。もっとも韓国版を観ないで初めて観る人にとってはそれなりに美しい映画に感じた人も多いかもしれません。

さて、まとめましょう。残念ながらいろんな意味で「語るに落ちた」という言葉がこの映画に対する私の感想です。その大きな要因は次の2つにあります。

(1)由紀子宛の手紙の切手

寿俊が由紀子宛に返事を書き、手箱にしまい込むシーンがあります。このとき封筒には学校の住所の宛名書きと切手が貼ってありました。ですから、寿俊の死後これに気づいた父親はすぐに郵送して、由紀子は彼の死を知ることになります。

一方、韓国版オリジナルでは住所はおろか切手も貼られないまましまい込まれました。ジョンウォンの死後、これらの手紙や写真に気づいた父親は、しかし彼女に送ることもできません。そこで、タリムがいつの日かこの写真館を訪れたときに声をかけやすいよう彼女のポートレート写真をショウウインドウに飾ることにしたのでしょう。もし彼女が訪れることがなければ、それはそれでいい、とジョンウォンも父親も考えていたふしがあります。

(2)手紙内容の語りすぎ

日本版感想で私が冒頭「あんなに語っては台なしだ」と述べた理由はこうです。学校に届いた寿俊の手紙内容がオリジナルに比べかなり長く語られました。もちろんオリジナルにあったフレーズも語られるのですが、残念ながらその大事なフレーズに至るまえに彼の由紀子への想いが切々と語られ過ぎたために、「あなたは思い出ではない」といういちばん大事な部分が埋もれてしまい、ぼやけたものとなってしまったのです。

オリジナルでは、ジョンウォンのタリムに対する恋心などという野暮なもの言いにはあえて触れず、単に「あなたを思い出としてでなく、あなたへの想いを秘めたまま逝かせてくれてありがとう」という核心のフレーズ一つだけ浮き上がらせることによって、この映画のテーマを見事に映し出していたのでした。

そういう意味で、実に残念な仕上がりでした。こうしてみると、韓国版のほうが日本的ですね(笑)。

それにしてもリメイクってどういうものがいいのか、そこはたいへん難しいですけどね。
(4月25日記)

レビューのご紹介
私が読んで感心したり、新しい発見があったこの映画のレビュー

  • 風の歌が聞こえますか……この映画の恋は、「二階の恋」だそうです。どういう意味か知りたい方はぜひご一読を。
  • It's a Wonderful Life ……リメイク版の評価が私とは異なりますが、とても丁寧にご覧になっています。一読される価値ありです。
  • 愛すべき映画たち……あのおばあさんのシーンがなぜ印象的なのか、的確に、簡潔に語ってくれています。
  • オタクの魂forビギナーズ……この方のレビューはいつもちょっと可笑しい。この大まじめな映画についてもきちんと!?本領を発揮されています(笑)。

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2006年4月 4日 (火)

『誰も知らない』

この映画は、2年前2004年の10月に劇場で見て、もちろんDVDも購入しました。そういう意味ではかなり気に入った映画です。
ここではまず、当時の感想をたまたま残してありましたので、まずはその再録を。

                     ……………………

昨日、見てきました。映画館から出てきてすぐに思ったのは、「何て言うのかなあ」という、何か感ずるものがあって言語化したいのに、その言葉がなかなか出てこないときのもどかしさにも似た、そんな変な感じ――その上おなかにドーンと鈍く響くような、そんな感じでした。

私の印象に残っているシーンと言うと、やはり初めて兄弟そろってお出かけするときの明の笑顔です。もう1つ、上のほうから見おろすように撮ったユキちゃんの仰向けの笑顔もすばらしいものがありました。特にあのユキちゃんの瞳の美しさは、あれは人を信じ切る目の輝きから来るものでしょうか。

置かれた環境、状況は言うまでもなく、悲惨どころではない。まさに地獄的とさえ言えそうなそんな中で、不思議と彼らの見せる表情はまるで状況にそぐいません。というか状況にまったく屈服していない。彼らの示す表情の1つひとつは、まさにまじり気のない「喜怒哀楽」そのものでしかないのです。観客の多くに伝えられたであろうこれらの映像は、ただひとつ「生きること」、「命」そのものではなかったでしょうか。だから、あの圧倒的な「生きる」に向き合ったとき、私は語るべき言葉を失ってしまったのではないのかしら、と。

この映画について何か口に出そうとすると、それを拒否する何かがあるのを自分の中に感じます。それは、もちろん自分自身の奥底から出てくるものだとわかるのですが、それが何なのかがはっきりしません。なにかを語ってしまえば、すべてそれらは欺瞞のにおいがしてしまうような、そんなつくりを思わせる映画だったように思います。

母親はなぜああなったのか。父親の責任は? もうちょっと地域社会や行政が目配りして少しでも状況の改善を図れなかったのか? そういった責任問題や社会問題などの次元でつくられてはいないのです。もちろん、そういった形で見ることを決して否定しているわけではないけれど、そういうところとはまるで別の目線でつくられている、と思います。

この映画はおそらく見る人の心を映す「鏡」とも言える映画なのかもしれない。というのは、この映画に何かを感じて問いかけたい欲求にかられたとしても、その問いかけ自体のこたえが既に自分の中に生まれようとしてしまうという経験を何度もしてしまったのだから……。そして、結局のところ、論理的な質疑応答・自問自答は無力化されてしまい、ただただ大きな「受容」の大波をかぶるしかないことに気づくのです。

                   …………………

今でも上記の感想と基本的には同じです。ただ、その後1年以上を過ぎたいま考えると、この映画の魅力はやはり是枝監督の持つ、とてつもなく温かいまなざしにあるのだと思います。監督は、このモデルとなった事件の「明」にものすごいショックを受けたと語っていて、それとともに「一言だけ『君はよくやったんだよ』と言ってやりたかった」とコメントしています。まさに、この思いひとつの映画であったように思います。そうして見れば、是枝監督の一貫した温かい目は映像の隅々にまで行き届いていたことに改めて気づくのです。そして、それは後で書くようにそれだけのものでは終わっていない、と今では思います。

この映画を最初に観たときに恐らく誰もが感じるのは、まず母親への非難でしょう。そして、次に来るのは父親たちの無責任さへの非難です。それから、次にはこのような子どもたちをそのままにしている行政や社会の体制そのものへの非難となります。それらは恐らく論理的自動性をもって思いつくことであり、やがては非難の大合唱となること、請け合いです。しかし、それらは事件当時の子どもたちにはまるで届かない、何の役にも立たない議論でもあるのです。

何たる論議・言説のむなしさ……。もちろん、このようなケースを二度と生まないためにも各種の論議がなされることに異論はないのですが。

だから、上にも書いたように監督の視点はだれかの責任を問うという方向には全く向いていません。単純に、こんな子どもたちを生んだ親は何をしとる、社会は何をしている、という声高な主張を訴える映画にはしたくなかったのだと思います。

では、何を撮りたかったのでしょうか。

私は、一貫して子どもたちの「いのち」を撮りたかったのだと思います。

命などと言うと大げさなように思えますが、何のことはない、映画にあったように明を中心にカップめんを食べ日々暮らし、ついには母親からの送金もなくなって、公園から水を盗み、コンビニから売れ残りのおにぎりをもらう、そういう一瞬一瞬の生活そのものが「いのち」の営みそのもので、それらを淡々と撮りたかったのだと思われるのです。

そう、ひたすら生きているその姿の「神々しさ」みたいなものを監督は撮りたかったのではないでしょうか。そこには、子どもたちの行為すべてを、ちょうど母親の胎内に包み込むように、まるで観音様が善悪を超えたところで見まもろうとするかのような温かいまなざしが感じられます。

これこそ、この映画の核心でしょう。

この映画は確かに監督自身の明に対するねぎらいの気持ちからでき上がった映画には違いないでしょう。しかし、でき上がった作品は、いつの間にか、実は観音菩薩の心を描いたものになっていた。というよりこの映画での是枝監督の目線が菩薩の心そのものになっていたということではなかったのか。今の私はそう感じています。

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『亀は意外と速く泳ぐ』

いやあ、のっけから何ですが『スウィングガールズ』の上野樹里、個人的にとてもはまってしまいました。何か「癖になりそうな上野樹里!」っていう感じです。実はこの『亀は意外と速く泳ぐ』の前にやはり上野樹里の出ている『サマー・タイム・マシン・ブルース』も見たのですが、こちらの映画の役柄は上野樹里にしかできないというほどのものでもなかったので、そちらはパスして、こちらの映画について書きます。それで、一つ前提的に言っておきたいのは、この映画は3回以上見ないと本当のおもしろさはわからないだろう、というのが私の結論です。

上野樹里の映画を見るのはこれで5本目。

『スウィングガールズ』とは別な意味でとても彼女にフィットした役柄でした。もちろん、三木聡監督の緻密な演出と脚本がすばらしいのでしょうが、とにかく広告宣伝でもフィーチャされていたとおり、その「脱力」ぶりが実にいい!

『スウィングガールズ』の感想でも書いたように、力の抜き加減が非常にうまい女優さんですから今回のような映画の役がフィットするのは当たり前なのですが、『スウィングガールズ』のときは、一応18人がほぼ主役という撮り方だったのに対して、この映画では文字どおりの主役ですから、全編上野樹里の魅力が満載です! 私はついにこのDVDも購入してしまいました。実は、特典の割にほぼ5000円という値段は高いと思ったのですが、もう何回も繰り返し観て、その都度笑えましたので充分モトは取れている感じです。

私は、この三木監督っていう人は知らなかったのですが、あの「トリビアの泉」の制作に関わっている構成作家だということです。最近はさすがに飽きてきてこの番組を見ていませんが、番組の出始めに見たときは「まあ、世の中にはおもしろいことを番組にする人がいるもんだなあ」と感心しました。そして、それと同様の感心の仕方を、この「カメハヤ」でもしました。ほんとに日本の映画もおもしろくなってきたなあ~。

さて、ここからはネタばれです。

海外に単身赴任する夫をもつ主婦・片倉スズメ(上野樹里)が主人公です。単身赴任の夫ですから、夫役は出てきません。というか、1~2回電話の声だけでの出演で、まあ、その辺はどうでもいいような感じです。毎日、夫が飼っていた珍しい亀「亀太郎」にえさをやるだけの単調な生活ぶりから映画はスタートします。

この単調な毎日に自分の存在の希薄さを感じ始めたスズメが、偶然「スパイ募集」の貼り紙を”発見”します。発見というのは、実はある階段の手すりの陰にごく目立たずに貼られた約5ミリ角の小さなものだからです。自分の存在に自信がなくなりかけていたスズメは、そのスパイ募集にみずからの存在生命?をかけて応募します。そして、拍子抜けするくらい簡単に合格。いよいよスパイとして生きる……。

とまあザックリ言うとこんなストーリーです。途中、公安警察なんかも出てきたりして(お間抜けではありますが)それなりに緊迫したシーンも一応あることはあるのですが、全編監督自身の言う「小ネタ」を積み重ねた喜劇ですから、深刻なところは全くありません。ただし、いわゆる爆笑するようなたぐいのものでもなく、くすくす笑いを地道に稼いでいくというような、そんなゆるゆるな映画です(でも、2回目以降に観ると、もう筋がわかっていますから大爆笑できるシーンもかなりあります)。

ところで、小ネタの集成でメッセージ性はないといっても、それなりにストーリーの底流にあるテーマは一応あるみたいです。「普通の生活」、「平凡な毎日」と言うけれど、その「普通」とか「平凡」って、具体的に何かと突き詰めてみると案外わからないものだよ、というのが1つでしょうか。まあ、よく言われるようにクルマの運転でも、1つひとつの動作に分解して、クラッチを切ってギアを入れてアクセル踏んでブレーキをかけるといったそれぞれの動作を意識的にやると運転にならないようなもので、「平凡な生活」を意識的に実行しようとするとなかなか奥の深い難しさがありまっせ、ってなところです。

その一方で、スパイとなって「平凡な生活を意識的にしろ」と言われてやり始めると、逆にこの平凡な1つひとつの行為がとても刺激的で魅力ある行為となってくるという不思議。その逆転性を示すことによって、どんな生活も見方を変えることで生活意識はころっと変わり得るんだ、と指摘しているようにも見えます。

それはともかくとして、全体的なつくりについて一言。

これは監督もメイキングで語っていたのですが、監督の古くからのつき合いのある一癖も二癖もありそうなつわもの俳優陣――岩松了、ふせえり、松重豊、村松利史、伊武雅刀など独特の雰囲気の役者たちが醸し出すあやしげな世界のなかに、出演当時18歳だったという上野樹里が、共演するうちに徐々に彼らの世界になじんでいく様子がちょうど映画のストーリーであるスズメがスパイの世界になじむ様子にも重なって、虚実ないまぜのなんとも言えないおもしろい芝居空間をつくり出していったようです。

そういう意味では全体にキャストの対照性がはっきりしていて、灰色系、黒茶系のクセ者俳優陣の中に、まるで赤や黄色の原色鮮やかな花を思わせる若い2人の女優――上野樹里、蒼井優が生き生きと演技しています。もちろん、脇がうまく支えているからなのですが、それを忘れさせるほど輝いた演技だったように思います。ずばりキャスティングがかなり成功した映画だと言えるでしょう。

とくに主演だけあって、上野樹里の演技は全編冴えわたっており、繰り返し見るほどに――私はすでに5回は観ています――うまさを感じました。それも、技術的にうまいというよりは、やはり上野自身の元々身に付いてるバイブレーションみたいなものが、ポッと出てくるような演技にうまさを感じるのです。

具体的に言いましょう。私がうまいと感じたのはほとんどがリアクションにあります。

クジャク(蒼井優)と最初にパーマ屋の前で出会うシーンで、クジャクが「ラーメンが食べたくなった」と言ったとき、パーマ屋の温水洋一が「ですよねえ」といかにもいいかげんな相づちを打った後に、意外そうに言う「ええーっ」というリアクション。

クジャクとバス停の前で別れた後、一人バスを待っていて、やがて来たバスに乗るつもりで手を挙げたのに無視されて走り去られたときのスズメの「ヒョエーッ」というリアクション。

初めてスパイ応募の面接に行き、岩松了から「ほら、僕って生き方が下手でしょっ」と言われながら、ポンと肩を叩かれたときに思わずもらす「ヒェエーッ」と肩をすくめるリアクション。

ちょっとリアクションとは違うかもしれないけど、スーパーで3000円の買い物をして、その買い方が「スパイとして合格」のメールをもらいます。その後、疲れて横になってしまうときのため息「はあーっ」という声とその演技。

切りがないので、これで最後にしましょう。これがいちばん笑ったのですが、クジャクが借金取りから逃げるようにして海外へ飛び、スズメに葉書が届くシーンがあります。以前からクジャクは、いつも学校の行き帰りに聞こえてきたショパンの「別れの曲」を弾いている人を一度確認しておきたいと言っていました。それで、海外に行く前に確認しに行ったのです。そしたら、それは実は「のこぎり」さんだった。という話を書いてきた葉書を読んで、スズメが一言つぶやく、「何だ、そりゃあ~」。ここのシーンは大好きです(笑)。

大体、これら全体に言えるのは上野樹里という女優が持っている軽み(かろみ)であり、力を抜いたり、力が抜けたあとにしみ出る雰囲気力とでも言うしかないものです。でも、これが上野樹里にしかできない味で、これはほんとにすごい! やはり一種の天賦の才と言うべきものでしょう。

あと、スパイ夫婦(岩松了とふせえり)との3人でのコント風の芝居もなかなかおもしろかったですねえ。最初の面接でのシーンはほんとに小ネタ満載でゆっくり笑っているひまもないくらい(笑)。3人のテンポがまたいいし……。スパイ夫婦のシーンであと特筆したいのは、最後のほうに出てくる「バネ」のシーン。何でまた、ここでバネ? おもしろすぎます(爆)。

それから、忘れていけないのがクジャクこと蒼井優の存在。盲腸だったにもかかわらず、楽しく演じたと語るこの女優さん、私は初めてでした。こちらは、上野樹里とはまた違った味のある女優さんらしく、ぶっ飛びかけた演技がなかなかうまい。というか、可笑しい。上野と絡むときの蒼井の演技はすべておもしろいんです。

パーマ屋前での開口いちばん「何だ、その頭~?」のせりふからしてもう可笑しい。そして、ラーメン屋でトラ柄のメガホンを持ってラーメン屋の親父を責める「笑うんだったら、もっとうまいラーメンつくれっ~」も、とてもよかったです。ガラガラポンのシーンも笑いましたが、そのときスズメに「どこ行ってたの?」と聞かれて答えた「うんこ」にはびっくり! 監督もひどいよねえ、あんな妙齢のかわいい女優さんにそんなこと言わせて(笑)。そしてそして、もちろんショパン「別れの曲」の演奏者を発見したときの「のこぎりさん」。ここのもったいを付けたシーンがあるから、先ほど述べた上野のせりふが生きるんです。絶好球でした。

そのほかで、私がすごく印象的だったのは「スズメはスパイに向いてないから記憶を消そう」という想像上のシーン。ハーモニカと渦巻き円盤で「記憶を消せる」って、そんなあ~っ(笑)。ばっかばかしくて、すごいおもしろかったです。この辺が、この監督のテイストなんでしょうね。

絵そらごとの芝居だとわかっているし、散りばめられる小ネタだってとても「ありえね~」というたぐいのものがほとんどなのに、いつの間にかストーリーにどっぷり入り込んでいました。

ところで、ちょっと内容から離れますが上映時間は90分でした。90分でもたっぷり堪能した気分でしたし、これくらいがちょうどいいのかなという感じもしました。最近の映画はやたら長くて3時間近いものもありますが、その辺どうなんでしょう。

最後に三木監督がオーディションで主役を上野樹里にしたいちばんの理由は、やる気のなさそうな「はあーい」を言ってもらって、上野樹里がいちばんうまかったからとのこと。それが要潤との喫茶店での対話シーンにあります。確かに、監督の話を聞いたあとにこのシーンを見ると、ほんとに監督の言っていた意味がよくわかりました。でも、あれは上野樹里自身の持ち前の素の言い方なので、上野としてはなかなか納得いかず、何で「いい、いい」と言われるかわからなかった、という発言になるのでしょう。もっとも、今回試写を見て初めて自分を客観的に見られたとのことですから、恐らく自分の持ち味がどの辺にあるのか、おぼろげながらも分かってきたかもしれません。

とにかく、当分、「癖になる上野樹里!」ってことで、今後の彼女の出演作には引き続き注目していこうと思っています。

映画生活「亀は意外と速く泳ぐ」

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おまけ。私がこの映画の各ブログを回ってみて噴き出してしまったおもしろブログです。

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