2011年2月12日 (土)

『毎日かあさん』

きょう、『毎日かあさん』を見てきました。

監督は小林聖太郎、西原理恵子役に小泉今日子、鴨志田穣役が永瀬正敏、長男文治役に矢部光祐、長女ふみ役が小西舞優という布陣です。

昨年の暮れころにNHKの番組に漫画家・西原理恵子さんが出ていて、この映画の話をしていたのを記憶していたので、だいたいのストーリー展開はわかっていました。

戦場カメラマンだった鴨志田さんと結婚した理恵子さんは、2人の子供をもうけます。ところが、鴨志田さんはアルコール中毒となってしまいます。彼と西原さんの壮絶なアル中との闘いや、やがて迎える鴨志田さんの死に至るまでを自伝的に物語ったストーリーを映画化したものです。

いつごろでしたか、西原理恵子の名前はどこか頭の隅にありました。週刊誌の4コマ漫画か何かを見た記憶があります。漫画家とはいえ、決して絵がうまいとは思えない作家だったのと、漫画で描かれる内容が女性にしては思い切りのよいユニークさが光っていたので覚えていたのでしょう。いつの頃からか「下手うま」という漫画の分野もありましたから、おそらくそういう分野の漫画家さんの1人かなぁ、くらいに思ったりしていました。

それはともかくNHKの番組で見たときに真っ先に思ったのは、予想以上にべっぴんさんだなぁ、ということ。これはおそらく多くの視聴者が感じたことじゃないでしょうか。確か漫画の主人公の絵の女の子もまん丸な黒目の持ち主だったと記憶していますが、西原さん本人も大きなまん丸黒目だったので二度びっくりでした。

ところでこれから見る人に対してこの映画を勧められるかといえば、即答、YESです。
映画館から出るとき、後ろを歩いていた女性の二人連れのこんな会話を紹介しておきます。

「この映画は、笑っているその裏に泣ける気持ちがあったり、泣いてるその裏で笑ったりするんだよね」

ここからネタバレ注意!

まずは映画のストーリーです。元戦場カメラマンの夫は、精神的に相当無理して戦場で過ごしたのでしょう、日常生活のほんの些細なところで微妙におかしな部分が出てきます。

ある日、公園で水鉄砲遊びをする子供に出会うのですが、突然子供の手から水鉄砲を取り上げようとします。鴨志田さんにとってそのとき脳裏にあるのは、中東紛争地域で子供が殺された銃と重なっていたからです。しかし明らかに日本では異常な行動でした。そばに居た子供の母親から「うちの子供の水鉄砲に何するの!」と激怒されてしまいます。またドッグフードを食べて、こんなにうまいもの、戦場の子供たちにはなかなか食えない、と主張したり、生活の端々に精神の歪みを感じさせる行為がみてとれるのです。

ここでちょっと横道にそれますが数年前、日航機御巣鷹山墜落事故を描いた『クライマーズ・ハイ』という映画がありました。もともと「クライマーズ・ハイ」とは、登山者(クライマーズ)が頂上をめざして危険な場所をも何のその、どんどん登っていく興奮状態が極限まで達し、恐怖感が麻痺してしまう状態のことをいうのだそうです(「ハイ」の使い方は「ランニング・ハイ」と同じですね)。ただ、恐怖感が麻痺するのですから、それだけ心理的に無理をしているわけで、その恐怖感は心理的に未消化の状態にあります。そして、このハイの状態から日常生活に戻った場合、その未消化の部分がPTSD(心的外傷後ストレス障害)となる人もいるということのようです。
それを日航機墜落事故直後の現場の惨状をみた地方新聞社の記者の、あまりの恐ろしい光景に恐怖感が麻痺してしまうことに重なり合わせたのでした。結局その記者は、平静な日常生活に戻れなくなるほど精神に変調を来し、ついには道路を走る車に飛び込み自殺してしまいます。いわば「墜落現場目撃者・ハイ」となったわけですが、それをクライマーズ・ハイの言葉にかけてこの映画のタイトルとしたものでした。

鴨志田さんも実はこの「クライマーズ・ハイ」と同様の状態で、いわば「戦場目撃者・ハイ」になっていたと思われます。戦場でのあまりにも恐ろしい体験が未消化のまま平和な日本に帰国しても、その精神的トラウマから逃れられず、ついには自殺するか、アル中になるくらいしかなかったのではないでしょうか(もちろん精神科医にかかって治癒の道を探る手もあったのかもしれませんが、この映画ではその自覚がまったく無かったように思われます)。したがって、アル中が彼の真の病ではなく、実は一種の精神疾患だったのですから、鴨志田さんも西原さんもかなりつらい想いをされたように感じます。

物語に戻ります。

ついに理恵子さんは2人の子供を引き取り離婚を決意します。夫も仕方なく承知して放浪の旅に出ます。しかし、実は元夫婦間でメールのやりとりは折りにふれ続けられるのです。

そうこうするうちに、鴨志田さんは断酒病院に入院することにしました。そして退院まで実に努力するのですが、果たして……。退院したとたんすぐに酒を飲んでしまうというていたらく。そんな繰り返しが過去にも何十回、何百回も続いて来たのですから、理恵子さんももうあきらめきっています。

ただ、子供たちにとってはやはりよき父親であり、子供たちの父親を慕う気持ちまでコントロールはできません。まあ、実は理恵子さん自身も本当は彼を捨てきれない想いもあったようですね。もちろん父親である鴨志田さんも、子供たちだけは本当にかわいくて、娘のフミちゃんにはもうめろめろ状態です(また、子役の小西舞優ちゃんがホントにかわいいんです)。

やがてついに鴨志田さんも何とかアル中から解放され、やっと家族4人の平和な日々を送ることができるようになりました。

しかし、ドラマの常というか、いや実話なのでたいへんお気の毒なことにというべきでしょう、彼の病魔はアル中からガンに移っていたことが判明します。そして、ついに医師から宣告されるのです。

「よくもって、あと半年の命でしょう」

理恵子さんのショック。離婚したとはいえ、一生懸命断酒自助会でアル中から離脱してやれやれと思ったら、今度はガン。それも半年の命というご託宣ですから、これはもう言わずもがな……。

さあ、ここからがきょう私がいちばん感動したシーンです。

自らの間近な死を覚悟した鴨志田さんとその子供たち、そして理恵子さんとの最後のやわらかな家庭生活がつかの間続きます。

公園に家族そろってのピクニック。そして3月3日の花祭りの日を迎えます。鴨志田さんはプロカメラマンとしてでなく、子供たちの父親としてその腕をふるいます。かわいい娘のあでやかな着物姿を撮り、日本のどこにでもある幼い女の子をもつ家庭の姿の一コマ一コマを写真に撮ります。もちろん、おきまりの家族そろっての記念写真も。全員にこやかに映っています。

そして楽しかった日の夜、ちょうど祭りの後の静けさを感じさせるシーンなのですが、それはなんと玄関でした。玄関にある2人の子供たちが脱ぎ放ったズックの姿をしみじみ見つめ、その少しゆがんだままの靴に向けてゆっくりシャッターを切るのです。

わたしは、このシーンに来てなぜだか涙がこんこんとあふれてしまいました。脱ぎ放たれた履き物って、何だかすげぇーって思うんです。もう完全に意表を突かれました。

ちょっと向きがずれた脱ぎっばなしの履き物————それが、こんなにとてつもなく人の存在、生き生きとした時間を感じさせるものだったとは……。しかも、人がいてはじめて当たり前の場所となる玄関と靴なのに、そこに人がいないときの静寂と余韻の深さ。それらをいちいち確認している鴨志田さんの姿に、やはり死を目前に覚悟した人のリアリティを感じてしまったのです。

やがて最期の日を迎えます。鴨志田さんは理恵子さんに「君のおかげで子供に対して悲しい別れ方をせずに済んだ。本当にありがとう」と言います。アル中のまま離婚してそのままどこかでのたれ死んでいた可能性もあったことを考えての、心からの理恵子さんに対する感謝の言葉でした。

そして、そのときはやってきました。

自宅に安置された遺体を前に泣きっぱなしの理恵子さん。そこに、2人の幼な子たちが精一杯の気を遣いながらそっと彼女に近寄ってきます。そして2人はいきなりおかしな顔をして一生懸命理恵子さんを笑わせようとするのです。

その子らのありがたさに2人の子を抱きしめながら泣き、そして笑ってしまう理恵子さんでした。

この映画の詰まるところのテーマはやはり「子はかすがい」ということでしょう。
理恵子さんと鴨志田さんのアル中を介しての壮絶な闘いと2人の相克も強烈なのですが、結局子供たちの存在によって理恵子さんも鴨志田さんも否応なくより温かく、より賢明な方向へ引っ張られて行ってしまう映画として描かれていたように思います。

もちろん夫婦間の実際の相克の姿はずっと深刻なものだったのでしょう。NHK番組に出たときの西原さんの話でも、ちょっとそれをにおわせていたように記憶しています。しかし、映画としてはこれで十分です。

この映画をみた後、万葉集・山上憶良のあの有名な句を思い出しました。

『銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も何せむに 勝れる宝 子に及(し)かめやも』
(金銀宝石といっても何の役に立つものだろうか。子供に勝るものなど決してありはしない」くらいの意味でしょうか)

ラストシーンで理恵子さんは子育てを評して「世界の女たちみんながやっていることを、きょうも私はやっている」とモノローグします。これにも、ぐっと来ましたね。女は命の養いびとであるがゆえに、母親となったときの強さも十分に感じさせる印象的なモノローグでした。

そうそう、ついつい最後になりましたが、役者さんの話を忘れてはいけません。この作品の配役は、すべて皆はまり役だったように感じます。この物語が実話であり、そのモデルもよくわかっていたので、少しでも違和感が生じる可能性もあったのだと思いますが、上記したように見ているなかでそんなこと微塵も感じさせませんでした。キョンキョンはもう西原さん本人とまったく同じとして見ていましたし、もちろん永瀬正敏の鴨志田さんもイメージどおりでした。そして、子役2人が実にいい味を出していたことはぜひ特筆しておきたいものです。

後味もよい温かな作品でした。

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2010年4月 2日 (金)

『花のあと』

『花のあと』を劇場で観てきました。

主役の北川景子については『ハンサムスーツ』のマドンナ役で見て、その余りの可憐な美しさに惹きつけられて以来、注目してきました。その後ただ美人女優というだけでなく演技力もそこそこある女優としてはっきり認識しはじめたのは、本仮屋ユイカとの映画『Dear Friends』でした。とりわけ不良少女の役をなかなか熱演していたのがとても印象に残っています。

さて、前置きはこれくらいにして映画『花のあと』です。

まず、ざっとあらすじらしきものを。ご存じのように原作は藤沢周平。

時代は江戸時代。東北の小藩の組頭であり、しかも相当の剣の使い手でもある寺井甚左衛門(國村隼)には娘が一人いた。名を以登(いと:北川景子)という。甚左衛門は以登の幼い頃から剣を教え、成長して以登も大抵の藩士の竹刀をたたき落とせるほどの使い手となっていた。ある花見の季節、桜の木の下で偶然藩随一の剣士と聞こえの高い江口孫四郎(宮尾俊太郎)と出会う。二人は短く言葉を交わし一度手合わせをすることを約束する。父・甚左衛門の許しと立会のもと、二人は竹刀で闘う。さすが藩随一の使い手である孫四郎にはかなわず、以登は敗北する。ただ、このとき孫四郎は他の男たちと違って以登を女相手と侮るような気配を微塵も出さなかったことに以登は深く感激していた。そして小手を打たれて思わず倒れかかった以登のからだを支えようと孫四郎に抱きかかえられた瞬間、以登は孫四郎に恋をしてしまう。たった一度の手合わせなのに忘れられない人となってしまうのだ。その後、孫四郎は藩の重鎮である藤井勘解由(市川亀治郎)の謀略に遭い切腹してしまうのだが、以登は孫四郎の自死に疑問を抱き、原因の究明を許嫁の片桐才助(甲本雅裕)に依頼する。才助の調査により見事、藤井の謀略と不正が解明される。そしてついに以登は孫四郎の復讐のために立ち上がる。果たしてその復讐の結末はいかに?

というストーリーです。

この映画の主人公は一応北川が演じる以登という娘=女剣士なのですが、全体を通して見終わると実は彼女の許嫁(いいなずけ)である才助がこの物語の主人公ではないかと私には感じられました。いずれにしろ、激しい殺陣のシーンで女剣士ぶりを美しく撮っていますから、もちろん以登が主人公であることに違いはないのですが、内容をよく検討してみると才助という人物が深いというか、冷静というか、大きいというか、鑑賞後にはとにかく彼についていろいろ想いをめぐらせざるを得ないのです。才助の登場するシーンは本当に少ないのですが、結果的にこの男の魅力を十分に表現している映画ともなっています。そういう意味でも非常におもしろい映画です。つまり、内容の主人公と映像の主人公が二人いるのです。もちろん、映像の主人公・北川景子の美少女剣士ぶりはエンターテイメント性たっぷりできちんと魅せてくれますから、これにも満足できます。また、映画全編にわたって流れる「和の様式美」にうっとりさせられる点も見逃せません。

ここからネタバレ注意

花見の帰りに偶然孫四郎と出会い試合の約束をするのですが、あらすじでも述べたようにここが起承転結の「起」の部分です。そして父・甚左衛門の立会のもと寺井家の庭での試合が「承」です。ここまでで、女剣士・以登と孫四郎の腕比べという単純なストーリーが語られます。しかし、孫四郎の誠実な立ち合いぶりに以登は初めて恋を感じるのです。

しかし、一方で以登には才助という許嫁がいますから、恋の成就は叶わぬことです。そうこうする内に孫四郎にもよい婿の口が見つかり妻を娶り、藩の職に就きます。ここが「転」となります。

ここで一つ付言しておくと、才助は五男、孫四郎は次男だということです。今ではもちろん考えられないことですが、当時においては長男でない次男以下の男たちはいわゆる部屋住みと言われ、武士のなかでも最下級の身分でありました。家を継げないということは、職も禄(給料)も無いということです。このことを知らないとこの辺りの成り行きがよくわからないかもしれません。寺井甚左衛門には息子が無いので当然婿を入れるしか家の安泰を図れません。才助は五男ですから喜んで寺井に婿入りします。そうやってようやく武士として藩の仕事に就けるわけです。そして、同様に息子のいない内藤家に孫四郎は入り婿となり、藩の仕事を得ることに成功するのです。

ところが孫四郎の妻・内藤家の一人娘・加代は、実は藩の重鎮であり妻子もある藤井勘解由(ふじいかげゆ)と不倫関係にあったのです。しかもこの密通話は藩のなかでも誰一人知らないものはないくらいに噂が広まっていたものでした。当然、孫四郎の耳にも入っていたのですが、そこは部屋住みのしがない次男坊の悲しさ、とにかくわかっていても加代の婿として落ち着くしか自分の道は開けなかったという背景があるのです。

そして、いずれは決着をつける運命にあった孫四郎と藤井勘解由は部下と上司の関係でもあります。この後の展開は、ちょうど忠臣蔵の浅野内匠頭と吉良上野之介の物語と似たような話です。要するに藤井勘解由が間違った「しきたり」を教えて孫四郎は使いに行った江戸で大恥をかき切腹するというストーリーです。

ところで、やはり歌舞伎役者ですねぇ、藤井勘解由役の市川亀治郎の顔つき、眼光の鋭さなどオーラが全然違います。一人ぬきんでていました。

それはともかく勘解由に騙されたと知ったうえで藩主の顔に泥を塗ったことに責任を感じて哀れ孫四郎は切腹してしまうのです。

それを伝え聞いた以登はいても立ってもいられません。ほかに頼る者のあろうはずもなくついに許嫁・才助にどうして孫四郎が死んだのか探ってほしいと頼み込みます。才助は江戸に5年ほど学問所に通った人物として紹介されていましたが秀才の一人だったのでしょうか。その辺は映画を観ただけではわかりません。しかしエピローグでナレーションされたように後に藩の家老にまでなった才助の才覚はかなりのものだったようです。友人の協力も得てついに勘解由の謀略であること、そして勘解由は藩内の商人と組んで賄賂をもらい不正をしていたことまで突きとめます。

さあ、これらの謀略・不正を知った以登は、ついに復讐に立ち上がります。

って、えっ? でも、何でそこまで孫四郎のために復讐までしなきゃならないんですかね。いくら自分を「女だてらに」と馬鹿にしなかったとか、ほのかに恋心を抱いたからと言ってすでにお互いの恋は不可能であり、また許嫁もいるのにとも思うのですけど。

まあここら辺の以登の気持ちは今の私たちの感覚ではちょっとついていけない部分もあるのですが、そこはやはり江戸時代という時代精神や時代感覚そして男まさりで正義感の強い女剣士の潔癖さからということにしておきましょう。

賄賂をもらって藩政を私しているという手紙を差し出して藤井勘解由をおびき出します。そして決闘シーンとなります。ここが起承転結の「結」の始まりですね。

さて、この辺りから才助という人物がとても不思議な行動をとります。まず、藤井の謀略と不正を調べ上げて以登に教えるのですが、上記したように以登はすぐに復讐のために決闘する旨を告げます。当然許嫁の才助としては嫁になる娘をおめおめと決闘に一人で差し向けるわけにはいきませんから、「俺も一緒に立ち会おうか」と助太刀を申し出るのですが以登は断ります。
断られてさすがに才助は「前から聞こうと思っていたんだが、何でそこまでして孫四郎のためにするのだ。一体、孫四郎とはどういう関係だったのか?」と当然の問いかけをします。

「一度、試合をしただけです」。以登は凛然として言い放ちます。

その一言を聞いて才助は納得します。というか、納得するしかないのです。ここの演技はなかなか難しいところだったように思いますが、その難しさをよく伝えるものとなっていました。才助役・甲本雅裕もなかなかうまい役者ですね。でも、ここで引き下がる婿さんも婿さんだなぁ、との思いはぬぐい切れません(笑)。

藤井勘解由に宛てた手紙の文面を、映画では以登が自分で書いていましたが、当然賄賂の情報なども書かれていましたから、勘解由をおびき寄せるための文面については才助も一枚噛んでいたのでしょう。そうでないと、後に決闘場所に才助が登場する理由がわからなくなってしまいますから。

決闘場所に行く勘解由には、実は3人の家来たちがついてきていました。一人立ち向かう以登。3人を何とか倒しますが、一人に腕を斬られます。それを見て余裕で迫る勘解由。ついに二人の決闘シーンです。腕を斬られ右手が利かない以登は左手で刀を持ち応戦しますが、刀をはね飛ばされてしまいます。右手は負傷、左手は素手という絶体絶命の状態。

私は劇場でこのシーンを見ているとき、ははぁ、ここで才助が登場するんだろうな、と思っていました。そして、才助は実はなかなかの剣の使い手であったという落ちか、とも考え始めていたのです。

でも次の瞬間、引きのカメラで立ち会う2人の遠く映し出された映像では確かに以登は助かったようでしたが、才助らしい人物の影も見えません。おや、どうなったんだろう、と注目していましたら、ゆっくりと画面が近づき勘解由のからだに短刀が突き刺さっていたのです。そうです、「才助の妻となるにあたって用意したのだ」と父・甚左衛門から与えられた短刀でした。勘解由が最後のとどめを刺そうと刀を振りかぶったときのわずかな隙をついてこの短刀を突き刺したのでした。さすが女剣士、すごいですね。

さて、ここで才助が登場します。

以登の傷の応急手当てをして「後の処理はおれに任せろ」と以登を逃がすのですが、この辺がとても不思議なストーリー運びです。だって、あわや自分の嫁となる人が殺されそうになっているのに、そのまま見過ごすという判断をしていたことになりますから。あるいは以登の短刀による反撃を予想して勝利を確信していたのでしょうか。さほどの剣の使い手とは思われない才助なので、そういうことはとても考えにくいのですが。

でも、勘解由がこの決闘場所で以登に問いかけたときに、「一人で来たのか?」と問いかけますが明らかに人の気配を感じなかったからこその一言でした。つまり、そのときに才助は来ていなかったのか、あるいは気配をまったく消すことができるほどの力があったのか、などといろいろと想像をかき立てられてしまうのです。

ところが、まったく別の考え方もできます。才助は、実はここで以登が殺されたとしてもそれはそれで仕方がないとして、後の処理をするために来たのかもしれないのです。それもまた自分の運命として受け入れる大きな諦観・度量みたいなものを持っていたのかもしれません。そして、そっちの方向で考えていったほうがこのドラマの奥深さをより感じられるように私は思います。彼は腕は立たない。だから、助太刀などはできない。でも家でずっと待っているほどの憶病者でもない。ただ、どのように経過がたどろうと、結果に応じて処理をするつもりだった。そういうことではなかったか。そこには、自分の無力感もあったでしょうし、またやはり孫四郎への嫉妬の念もかすかにあったかもしれません。

それになにより、この当時の時代にあってはどうしようもないことが多かったんでしょうね。部屋住みの件にしてもそうです。運命というものをコントロールしようなどとしない、いやできないのですからただただ流れに沿って生きるしかない。そんな人々の物語の一つとして受けとってみるとまた違った映画としても見られるように思います。

そうそう最後に近いシーンで父親・甚左衛門と医師との会話のなかで、甚左衛門はこの娘の事件をすっかり知っていることがわかりましたが、この辺の事情と才助とのつながりがどうなっていたのか憶測は深まるばかりです。まあ、刀傷を受けた娘をみて事情をしったのかもしれませんが、それとも事前に才助と話し合ってもいたのか、うーん、謎ですね。

ところで、この映画のよさについてぜひ一つ挙げておきたいのは随所に見える立ち居振る舞いの美しさです。クランクアップの後、北川景子が語っているところによればこの映画でいちばん辛かったのは礼儀作法だったそうです。障子の開け閉め、正座、姿勢など古来日本に伝わる礼儀作法がきちんと示され、それらが映画全体を包む美しい佇まいとなっています。ゆったりとした作法の一つひとつにかつて日本にあった美の様式をたっぷり、ゆっくり味わうのもこの映画を楽しむ一つの方法でしょう。事実わたしはそれを楽しんで見ることができました。

エピローグで才助は藩の筆頭家老にまでなり、しかも”あろうことか”以登に7人の子供を生ませたとおばば(後の以登)にナレーションさせています(笑)。いやあ、めでたし、めでたし! 後味のすっきりとした映画の一つでした。

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2010年2月16日 (火)

NHK『青春リアル』2月13日りんりんトピック

最近NHKの『青春リアル』をおもしろくみています。

この番組を知ったのはおそらく昨年の半ばくらい。たまたまチャンネルを回していたらなかなかおもしろそうだったので、ときどき観るようになっていました。そして、今回の第3期シリーズは毎回録画してみています。

先日2月13日(土)の回は助産師の"りんりん"がトピ主でそのトピックは「おなかの子に“障害”があるかもしれないと言われたら、どうしますか?」でした。

個性豊かな12人のそれぞれの投稿をもとに構成されるという異色な番組ですが、メールや掲示板がコミュニケーションツールとして定着したからこそできる企画です。ただしこれに参加するには、文章作成能力(いわゆる文章がうまい・下手とはまた違って、むしろ言いたいことをとにかく文章にする力、ふだん遣いの話し言葉をそのまま書くので十分なのですが、これは実際問題かなりしんどい作業でしょう。腕力も必要です)がかなり要求されそうです。

それはともかくいつも感心するのは、NHKの「番組としての構成力」です。メンバーのそれぞれの書き込みをきちんと咀嚼(そしゃく)して、語られつつある現在のポイントをきちんと押さえて番組として観られるものに仕立ててしまっていることにです。NHKのウェブサイトに設けられた掲示板でメンバー各人の投稿をナマで読むこともできるので、それらの投稿をどのように料理したのか、その手並みのほどがわかります。

さて今回のりんりんトピックはこの第3期でも観点の豊富さやまとめ方の点で珠玉の出来となっていたように感じました。とくに「障害児を産むか産まないか」などという大きな問題の番組の締めをどうするつもりかと注目していたのですが、ジム経営者・ゴンチャの母親――知的障害者のケアをして20年の経験を持つベテラン――の言葉で余韻を残すように終わっていたのはある意味NHK的ともいえますが、なかなかうまくまとめたなぁ、の一言です。

12人の投稿が読める掲示板では、りんりんのトピック自体がどういう方向性をもって議論していこうとしたのか、いまひとつりんりんから明確に説明されていなかったのですが――むしろそのためにいろいろな意見が総花的に出ることになり結果としてそれがよかったようにも思います――、それはともかく各人一人ひとりの思いがつづられるなかで、「障害とは何か、生まれる子にとっての幸せとは何か」が正面切って議論される流れになっていました。そして後半ではニカの過去の生活とも絡み白熱の展開となっていきます(ニカはこれまでに明かされた以上にいろいろな経験を持った女性のようです)。

もう本当にこんな真剣でまともな議論のやりとりを聞いたのはウン十年ぶりでしたから久々に新鮮なショックを受けたものです。

それにしても真剣に話し合うことによって、人はどんどん変わっていくんですね。とくにこの年代では、という補足は必要かもしれませんけど。掲示板を読むとそれらの様子が手に取るように感じられて、やはり人は話し合うことがとても大切なんだなぁ、と改めて感じさせられました。

そして、併せてこの番組のトピ主はとても大変だということ。1対11で突っ込まれますから、本当に丸裸の自分をさらけ出さざるを得ません。ちょっとでも甘い虚飾やごまかしが見えたりするとすぐに叩かれます。メンバー各人、自分からすすんで参加したはずですがやはりトピ主の番に来ることを怖がっています(笑)。

今回のりんりんの回はそうでもなかったのですが、これまでの何人かのトピックで目立った傾向は、トピ主がトピックを立てた際自分では既に十分に検討済みで分かっていたつもりの前提や解釈に大きな破綻・欠如があって、みんなから叩かれ、そこで改めてそのことに気づいて一定の成果をみて終了というパターンでしょうか。

ところが今回のりんりんトピックでは、障害ということがテーマの大きな位置を占めるため聴覚障害者"はちきん"のトピックともかぶる面もありましたし、ベトナム人"フォー"の日本における外国人差別問題も、国籍が違うことによる”障害”として見られないこともない。そのうえ、障害とは何か、について考えを突き詰めると人間の相対的な「劣性」というところにまで行き当たり、肉体的な劣性――例えば走るのが遅い、アトピーがある、などといったことにまで敷衍して、自分自身のそういった劣性を自覚したメンバーからはいわば(中絶される)当事者としての意見も続出したりしたため、大いに議論は盛り上がっていったようです。

ところで町長がいるのですが、今回は途中で1970年頃の「不幸な子供を生まないための運動」を紹介していました。この発言はかなりポイントの高い発言となり、その後の議論の一つの方向性に道をつけたように思います。こういう発言が町長の真骨頂でしょうか。社会学者としての博識から今なされている議論に適切な”素材”を投げ込んでいく、そういう役割が町長としていちばんふさわしいように思います。

今回の議論は、もちろん結論の出るようなものでないため、ややもすると不毛なものになりがちなのですが、これがなかなか生き生きとした展開が続き非常に引き込まれる意見がたくさんありました。上に述べた人間の劣性=障害の可能性や、フォーの言った環境の問題――これは福祉の世界では今や大原則になっているデンマークのバンク・ミッケルセンが提唱した「ノーマライゼーション」と同じ趣旨でしょう――がかなり大きな比重を持っているのではないかなどです。

そして、議論が続くいま現在だからこそ今回の番組の最後として語られたゴンチャの母の言葉が、また別の次元にあるにしても余韻をもってわれわれにヒントを投げかけてくれます。とくに最後の一言には人に対する深い愛を感じたのですが、これは私だけでないでしょう。

《実際のところ母によると、「障害」を持った子供と共にたくさんの困難を乗り越えた親御さんは、やっぱりすごく強くて魅力的な人柄の人が多いらしい。そして最初から誰しも強い訳じゃなくて、「死にたい」と思うような事もあって、それを乗り越えながら徐々に強くなるって。始めから強くなくても良いって。》(ゴンチャの投稿より)

追記(3月1日)

2月27日の番組の最後にりんりんトピックについての「皆さんのご意見」というのが紹介されていました。早速、NHK「青春リアル」ウェブサイトに飛んで確認してきましたが、ここでこのブログ記事の最後として追記しておきます。

              ********************************

「皆さんのご意見」199件目「選択肢」を提供するべきではない     
                             投稿者: [匿名希望 神奈川県・40代]

ダウン症の子を持つ母です。

妊娠中、障害の可能性を考え、羊水検査をするかどうか考えましたが、しませんでした。

検査をして障害があるとわかったら中絶したいと思ってしまうでしょう。だけど、生まれてきたい命を殺してはいけないと思ったからです。

なのに、ダウン症だといわれたときは、どうしてあのとき検査をして中絶しなかったかと悔やみました。

子どものことより、自分が可哀想でした。二年ぐらい苦しかった。

今、子どもは三歳です。あのとき中絶しなくて本当に良かったと心から思います。

自分のことばっかり考えていた自分が恥ずかしい。子どもは私にいろんなことを教えてくれます。一番でなくても、お金いっぱいなくても、幸せになれるよって笑顔で手をひいて、知らない世界を見せてくれました。

毎日とても楽しく、充実しています。

上の娘が 4 歳のときに言った不思議な言葉を思い出します。

「お空で約束してきたの。わたしがいっぱいいろんなことができるから、僕のお姉ちゃんになって、って頼まれた。いいよって言って、先に来たんだよ。」

ひょっとして、自分も子どもと約束してきたんじゃないかって思います。

でも、羊水検査をしていたら、あのときの私は未知の世界に飛び込む勇気が出なかったのではないか。

だから、「選択肢」を見せて欲しくない!というのが本音です。

                ********************************

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2009年4月22日 (水)

「青春アカペラ甲子園 全国ハモネプリーグ2009春」

昨晩、「ハモネプ」を見ました。とてもレベルが高くて実に見応え、聴き応えのあるハーモニーがメジロ押しでした。とくにCブロックは同じブロックにいたのがもったいないと感じるくらいの実力伯仲ぶりでした。

終わってみれば、「Bam b Crew」が優勝という、まずはある程度予想された結果だったように思います。おそらく、昨年までの活躍を加味し、また今後の将来性の有無を考えての、ある意味情緒的な審査結果だと思いますが、もちろんそれで彼らの価値が低くなるなどということは全くありません。本当にお見事でした。

決勝戦で歌う前に質問された"やーさん"がB・Cブロックの歌声を聞いて、「てっぺんとるというのが言いにくくなった」みたいなことをしゃべっていたのですが、あの発言がかえって審査員に好印象を与えたのではないかと思います。わたしもあの発言でむしろ好感を持ちました。もろちん、リードボーカルの"やーさん"だけがうまくてもここまで来れなかったわけで、歌い終わって涙を流すくらい全員とてもよく練習されたことのわかるハートに響くいいハーモニーでした。

さて、今回は録画していたので、きょうかなり何回も繰り返して聞いてみました。その結果について書きたくなったので以下に記してみます。

昨晩の審査結果はそれとして、じっくり聴いてみてのわたしのランクはどうなったか。第一位はA-Z(アズ)でした。理由は、男女3名ずつの混声で、しかもボイスパーカッション、ベース、コーラス、リードのそれぞれがとてもレベルが高くて全体としてのバランスがずば抜けてよかったように感じられたからです。

そして、ほんのわずかの差で2位はμ(ミュー)となります。とにかくハーモニーの美しさ、何より"きむち"さんのずば抜けたソプラノの美声に聞きほれてしまいます。中川翔子がコメントしていましたが、"きむち"さんがソロで歌い始めると、聞いているほうは一瞬息を呑んでしまいます。その張り詰めた緊張感のなかでのソロのワンフレーズが終わった途端、8名全員が一斉に素晴らしいハーモニーを奏でるのです。それは、まるで優美な大波のようにわれわれの胸に飛び込んで来るものですからたまりません。

一回戦で歌った平原綾香/『Jupiter』。冒頭の「Everyday I listen to my heart」は、"きむち"さんの低音の響きで始まるわけですが、この曲の後半に出てくる2度目のソプラノ・ソロには思わず涙が出そうになったくらいです。それくらい彼女の声には訴えるものを感じました。

そして決勝での鬼束ちひろ/『月光』でも、歌の半ばでやはり"きむち"さんのソロが始まるとサッと緊張感に包まれます。だれしも息を呑んで彼女の声に聴き入るのですが、その後には全員のハーモニーが響きわたります。ところが今度は"きむち"さんのソプラノ・ソロによる裏メロというのでしょうか、1人高い旋律がバックに流れます。あまりにも綺麗なこの裏メロとのハーモニーにただただうっとりとしてしまいました。

意図的につくったのかどうか知りませんが、ミューは「緊張」と「解放」という、実に聴かせ方を心得たハーモニーでわれわれを魅了してくれたように感じます。

さあ最後は、私にとっての1位。A-S(アズ)。
まずいちばん目立つのはやはりリード・ボーカルの"けいちゃん"であることに誰も異論を挟むことはないでしょう。その甘くしっとり感のある歌声、高く張り上げてもまったく嫌みを感じさせないこの声には脱帽するしかありません。しかも、肩の力をまったく感じさせない表情まで実にいい。さわやかさを感じさせてくれます。

さらに何回か繰り返して彼らの歌声に耳を傾けていると、しだいにこのグループの他のメンバーの素晴らしさにもどんどん気づいてくるのです。

まずコーラス。双子ら3人娘たちは抑制の効いた、しかし美しいハーモニーでリードを支えていることがわかってきます。とくに私がコーラスで感心したところは、一回戦で歌ったAI/『STORY』の最後での「♪my story~」です。気持ちのいい響きで存分にリードボーカルの余韻を際立たせてくれました。そして、決勝(MISIA/『EVERYTHING』)でのそれは、途中でサビの前「♪I need you, everything」 。双子らのハーモニーですが、これは何度聞いても心地よく耳に響きます。

そして、さらにボイスパーカッション、ベースの二人の男子もとても素晴らしい。完成度高く自分のパートに徹していて、さすがに関西選抜です。やはり全員が同レベルに高い質を持ってこそ初めてグループとしての完成度、素晴らしさが生まれるということなんだなぁ、と改めて感じさせらました。

放映中の番組を見ているときには、どうしてもリードボーカルに耳が行きますし、テレビ的なナレーションなどの要素も無視できないので評価がまた違った観点で為されるものです。それはそれで臨場感のある評価として申し分ないのですが、録画などして繰り返し聞いてみると上に述べたような総合的な視点も加味されてまた別の楽しみ方ができるようにも思います。

そのほか、今回は決勝には進めなかったグループにも印象的だったものが多かったですね。小学生女の子のグループ、慶応大学のロック・グループ、ドラゴンボールを歌ったアニソン・グループなどエンターテイメントとしても大いに楽しめました。

いずれにしろ、例年このハモネプには楽しませてもらっています。プロになる者もいるようですが甲子園と同じで青春の1ページを飾る一回こっきりのグループの歌声の素晴らしさには、心からありがとうと言いたいです。

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2008年10月25日 (土)

『闇の子供たち』

昨日、レイトショーで『闇の子供たち』を観てきました。この映画については友人のクチコミで知り、またテレビで主役の江口洋介がこの映画について語っていたのを覚えていましたので関心はあったのですが、観るのはさてどうしようか、と迷っていました。というのは、人身売買のうえに臓器移植まで絡んでいる話ですから、ちょっとどんな映像に出くわすのかやや恐怖感もあったからです。余りに恐怖感を植えつけるようなたぐいの映画は、実はとても苦手なんです。

最終的に「やはり観てみよう」と決断したのは今という時代の現実にある残酷な事実にもきちんと一度向き合ってみようかくらいの気分から、とでも言うしかありません。いや、実際のところは「何だか観なきゃいけないな」みたいな漠然とした義務感が自分の奥底にあったからだと思います。

さて、キャストはなかなか手堅いものでした。だから、ある程度安心できた――さほど残酷極まる恐怖映像はないだろうというところもあったように思います。見る人によってはギリギリの表現もあったかと思いますが、全体的に私の場合はまずだいじょうぶ、耐えられるものでした。

主役の新聞記者役に上述の江口洋介、タイの児童福祉施設に協力に来た日本のNGO出身のボランティア・スタッフに宮崎あおい、臓器移植を必要とする子供の父親役に佐藤浩市、フリーカメラマン役に妻夫木聡などです。その他恐らくタイでは著名な役者さんたちが絡み、上映時間約140分という長さを決して意識させないだけの力作となっておりました。そして、タイの子役たちがとてもすばらしかったです。とにかく目に宿る純粋な光が美しい。結果としていやが上にもストーリーのおぞましさが際立つこととなっていたように思います。

いつもは気に入った映画しか感想を書いていないのですが、今回はそういう気に入るとか気に入らないというような範疇を超えている映画です。ただ率直に感じたままを記してみます。

ここからネタバレ注意!

ある1つの見方で思い切り簡単にこの映画のストーリーを書くとしたら、タイの貧しい幼い姉妹ヤイルーンとセンラーが人買いに売られ、ヤイルーンはエイズで、センラーは心臓の提供によって死んでしまう物語と書けるでしょう。

しかし、主人公の新聞記者の立場から書くと以下のようになります。

日本新聞社のタイ駐在員である南部浩行(江口洋介)は、東京に妻と幼い娘を置いてバンコクに単身赴任している。そんなある日、本社の社会部の記者・清水哲夫(豊原功補)から日本で心臓移植の必要な子供がタイで移植を受けるらしい、ついてはタイでの内臓移植の実情を調査してほしいと協力依頼される。早速、南部は現地の伝を頼って内臓売買の元・仲介人に接触する。すると、何と移植される内臓は子供が生きたまま麻酔されて取り出され移植されるという事実に行き当たるのだった。心臓の場合は、つまり子供が殺されるということである。こんなことが本当にあるのだろうか、そのため南部は調査を進めるが……。

ま、大枠ではこういうストーリー構成です。

この後、映画では南部の手がけた調査にタイの児童福祉施設も協力することになります。そして、その施設には日本のNGO出身の音羽恵子(宮崎あおい)がボランティア・スタッフとして加わっていました。やがて調査を進めるうちに、ことは移植用内臓売買から幼児売買春の世界へと広がっていきます。つまり、貧しい家庭の子供たちが親によって闇の世界に売られており、何と子供たちは富裕な欧米人・日本人らによって性の玩具として働かされていたのです。それらの表現はやや抑えられていたにしても(小説を読んだ友人に言わせると小説はもっと生々しいとか)、やはりかなりショッキングな映像でありました。

ただこのテーマ自体、つまり内臓売買や幼児買春などについては以前テレビでインドの貧しい地域でも行われているというレポートを見たこともありましたのでさほどびっくりはしませんでした。でも幼児売買春の具体的な姿――少年・少女たちの被る具体的なひどい姿についてはテレビの性格上ナレーションのみでほとんど詳しく触れられていませんでしたから、この映画によって初めてそのショッキングな内容を知ることとなりました。とても正視できるようなたぐいのものではありません。

そして、この映画はこれらの実態を伝えることによって次の2点を強烈にアピールしています。

・幼児売買春……人間はお金を払えばどんなことでも――人間の尊厳まで冒涜することが許されるのか?

・内臓売買……人間の命は果たしてお金で買えるのか? お金がない者はお金のある者のためにその命を犠牲にしなければならないのか?

もちろんこれらは反語表現であり、疑問文などではありません。しかし、そういうかたちでしか問題提起できない今の時代というものを前提にしているようです。そして資本主義の極みによる弊害という言い方だけで済ませるわけにはいかない、もっと人間の「欲」に潜む根源的な闇について告発しています。

エイズにかかって瀕死の状態のため商品価値を無くしてしまったカイルーンは、黒いごみ袋の中に入れられてゴミ収集車に投げ入れられてしまいます。幸い日本と違い粉砕機は付いていませんので幾分ホッとしましたが、そのゴミがちょうど日本の夢の島のような広いゴミ集積場に置き捨てられます。まだ生きているカイルーンは袋から何とか這いだしふらつきながらも歩き始めるのです。そして遂には山間の貧しい村にある実家までたどり着きます。しかしすぐにも死を目前にしていることが誰の目にもわかるこの少女に、親は竹製の簡易ベッドに寝かせてやるしかありません。そしてついには死んでそのベッドごと焼かれてしまうのです。

この焼かれるシーン、それはそれは哀しいもの……。村の人々が皆その焼かれる火を囲むように無言で見ています。そうした光景――じっと静かに立ち尽くす人々の中で動きのあるのは泣き崩れる母親らしい女のゆれる肩と、犬が後ろ足で首をかいている、それだけです。余りにも凄惨でこういう子供を目の前にしているわれわれとは一体何者なのか、と考えずにはおられませんでした。

一方、そのころ妹のセンラーはお風呂に入って清潔にされ、恐らく人生で初めてであろうきれいな服を着せてもらい心臓移植の行われる病院に到着します。映画では病院に入る玄関のところで映像は終わりますが、もちろんその後どういう展開になるかについて観客は十分理解しています。

それでも映画の後半では何とかこれら闇の商人たちを逮捕して子供たちが救われるというかたちにしてあります。でも、それによってわれわれの留飲が下がるわけでも、問題が解決したという安堵感が生じるわけでも決してありません。これらの現実を生む構造的な背景がしっかりと分かっているからです。そして、これら悪徳の仲介にかかわる人たちのほとんども、こんな現実には嫌気がさしており、心から受け入れているわけではないことが映画の随所にかいま見えているのです。

さて、この映画のラストです。

実は主人公・南部の自殺で終わります。これもまたこの映画の初めから数々の伏線がありました。時折フラッシュバックのように挿入される南部らしき男が幼い男児を連れて夜の街を歩く姿や、児童福祉施設で子供たちと遊んでいる南部を見て施設の女所長が「あら、彼は子供が好きなのね」とつぶやくシーン等々……。そうです、南部もあの忌まわしい幼児性愛者の1人であったのです。

当初は本社の要請から現地記者として内臓売買調査を進めていたわけですが、上述したようにそれらが幼児売買春の世界へとつながるうちに自分の為してきたことの恐ろしいまでの罪深さを自覚していく、そういう内面のドラマとしても撮られていたことにわれわれ観客は気づかされるのです。

そして、われわれ日本人の中にもこうした欲望がふとしたことで出てしまう人間がいるということだけでなく、幼い男児にホルモン注射(性的興奮剤)を過剰に投与して性的玩具にしたあげくその男児を殺してしまった白人女性をも映し出すことによって、幼児買春の恐ろしいまでの普遍性――つまり富裕であれば男性のみならず女性にもその種の欲望があることについても言及しています。そういう告発対象の広さに象徴される深い洞察力には舌を巻くしかありません。つまり、「私」には関係のない遠い世界の話とは誰にも言わせない映画としてもつくられているようです(あるブログでも見かけましたが最後に出てくる南部の部屋の「鏡」はその象徴と言っていいでしょう)。

最後に一言。

予想どおり実に重い、重い映画でした。誰にでもお薦めの作品とは言えませんがそれなりの覚悟をお持ちになれる方にはやはり一度見ておいてよい力作です。

なぜ迷いながらも「見なきゃいけない」と私は感じたのか。それを今考えると、知ることは光を当てることであるからだ、と無意識に感じていたんだろうと思います。すぐにこういった現実を無くすことはできないかもしれません。しかし、まずわれわれがこういう事実をきちんと知ることによって闇の世界は徐々に力を失い、やがては現実を変えていく勢力の一端を担えるのではないか、そんなふうに感じます。そういう意味でもいろいろな方に見てもらいたい映画です。

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2008年10月 6日 (月)

『カンナさん、大成功です』

2006年の韓国映画『カンナさん、大成功です』をDVDで観ました。久しぶりの韓国映画です。

3年前に『猟奇的な彼女』を観てから映画好きとなってこのブログを立ち上げたのですが、その後韓国映画もちょっと疲れが見えてきたようで、あまりおもしろいと感じられる映画が少なくなってしまいました。チョン・ジヒョンの『デイジー』やソン・イェジンの『私の頭の中の消しゴム』などは、”鳴り物入り”という感じで日本でも紹介されましたが両方ともいま一つでした。そんなことから、最近はむしろめきめきおもしろくなってきた日本映画ばかり専ら観てきたような気がします。

さて、この映画は久しぶりにおもしろいと感じた韓国映画でした。監督はキム・ヨンファ、主演のカンナ(=ジェニー)にキム・アジュン、相手役のイケメン辣腕プロデューサーのサンジュン役にチュ・ジンモという配役です。

原作は日本の同名の漫画だそうですが、わたしは知りません。また原作マンガには太っていた当時の絵はなかったそうですから、原作のアイデアを基にして新たに創作した映画という面があるようです。

ストーリーだけ、簡単に振り返っておきます。

主人公はカンナ(キム・アジュン)という女性。体重95キロ、身長169センチという巨漢の彼女は美声で歌が上手だったため、歌が下手でも美貌とスタイル抜群のアミの影の歌手として生活していた。そしてアミのコンサートをプロデュースするサンジュン(チュ・ジンモ)にひそかに恋をしている。

そんなある日、ひょんなことから彼にまったく相手にされていないことを知って自暴自棄となり自殺を図る。しかし死にきれず、ついに死んでもいいからと全身美容整形という手段にうって出ることになった。そして手術は成功した。

その後、改めて別の名前(ジェニー)でアミの影の歌手になるべくオーディションを受け見事に合格。しかし、今度は美貌でスタイルもよいカンナは、アミの影になるのでなく主役としてデビューすることとなった。それは順調に進んで行ったかに見えたが……。

大事なソロ・コンサートを前にして彼女の昔の姿を密告する者があらわれ、彼女は風前のともしび状態となってしまった。さあ、彼女はどうするのか?

とまあ、こんな感じのストーリーでしょうか。

それはともかく全編コメディタッチでクスクス笑いを誘うところが多いのですが、ラストでは思わず涙を誘わずにはいられないようなシーンもあり、バランスがとれていてなかなかよく仕上げられていたように思います。

まず、この映画の特徴としては”一定の主張がなされているものではない”点をとくに挙げておきたいと思います。

どういうことか。

通常この種の映画では肥満のからだを全身整形しても、それは虚飾の姿であるのだからやはりそういうことは生き方としてどうだろうか、とかあるいはやはり女は美人でなければ生きにくいのだから、整形なども含めて何でもOKだ、などのような二者択一的な主張がどちらかに偏ってされがちなテーマではないでしょうか。しかし、この映画にはその辺の問題にはまったく立ち入っておりません。まあ、観る人がどう捉えるか、それは皆さんにお任せします、といったスタンスであり、それが程よい距離感を保ってくれています。

ところで、私は「この映画はずるい!」と思いました。

1つはキム・アジュンの二役であり、そしてもう1つが彼女の歌声の美しさです。

肥満体の役も特殊メイクによってキム・アジュンが演じ、また歌も吹き替え無しだったということを知ったとき、最初は信じられない思いでした。それを知ってから再度観たのですが、もうこれはキム・アジュンの演技・美貌・美声にうっとりしっぱなしでした。いや、さらに突っ込んで正直に言えぱ彼女の歌声にただただしびれてしまったのです。

映画冒頭の歌、Janet Jackson の「Miss You Much」にしても、その次に出てくる The CAUSE (Fugees+α?)による「stand by me」にしても、それぞれ歌っているのはたったワンフレーズだけにもかかわらず、その美しい声の響きに魅せられてしまいました。そして、いよいよオーディションのシーン。ここで初めてフルで歌いこんでくれたyumiの「星」ではもううっとりです。

これが吹き替えなしだなんて――ずるい!!! とまあ、こういうことです(笑)。

もちろん、最後のメインに熱唱した「マリア」では本物の歌手としても遜色ないほどでしたし、涙で自分の正体を訴えるシーンも、本来なら”こんな事アリエネー”話であることなどわかりきっていながら、それ以上にストーリーをそのまま素直に受け入れさせるだけの力が感じられたものです。

演技の話をするのを忘れてしまいましたが、それほど彼女の歌声に魅入られてしまったということです。もっとも、DVDにおまけで付いていた特典ディスクをみたら、音楽担当のプロデューサがかなり頑張ったみたいで彼女の美声もさることながら、かなり音響技術でカバーしたところもあったみたいな言い方をしていました。ですから、いわゆるチャンピオン・データだけでつくり込んだのかもしれません。いや、でもそれにしても大したものだと思います。

さて、演技。

韓国の主役を張るくらいの女優って本当にみんなうまい人が多いなぁ、と思います。このキム・アジュンも新人だったらしいですが、見事にこの役をこなしていました。とくに肥満特殊メイクでの演技がよかったです。

やせ薬を売りつける目的で近づいてきた男との別れ話のシーンや、「stand by me」を歌っているとき、その歌詞にかこつけてプロデューサーのチュ・ジンモに対する求愛のしぐさをしたら、たまたまそれをジンモに見とどめられて思わず恥じらう姿など実に印象的でした。

そしてこのときのジンモの何とも言えない反応もよかった――一瞬、彼女をかわいいと感じたんだけど、でも……。というような表情と演技には感心しました。そして、歌の細かい指示を受けながら、カンナが手に持っていた飲料ボトルを彼に勝手に呑まれ、でも思わず嬉しくなってそのボトルを大切そうにするしぐさなど、いわゆる羞じらいを可愛らしく演じられる女優さんですね。

もちろん、チュ・ジンモが最後のほうに見せた演技――会長の前でグラスを叩いて血を滲ませるシーンなどもなかなか迫力がありましたし、キム・アジュンのスカートを半分破り捨てるところなど結構いろいろと凝った演出がされていて飽きさせません。

それにしても、女性は美しいかどうかで生活というか、人生がまるっきり変わってしまうんだなぁ、ということを今さらながら改めて考えさせられる映画でしたね。

おまけディスクにあったキム・アジュンのインタビューで知ったのですが、映画の制作の順番は映画の順番どおりだったそうです。つまり、最初特殊メイクの肥満カンナさんのシーンを撮ってから、次に全身整形後の美女カンナさんのシーンを撮ったんだそうです。そのときにキム・アジュンはこんな経験をしたと語っています。

彼女が最初肥満メイクをしていたとき撮影現場のみならず近場の街まで歩いたりしてみたそうです。すると街ではいろいろな人がじっと自分を見てくるとのこと(どうも口ぶりからすると、あんなに太っちゃって可哀想に、という目だったようです)。また、現場ではスタッフの皆んなからは「カンナちゃん」とか言って親しげに声をかけられたり冗談を言い合ったりしていたのに、整形後の撮影になったら突然スタッフがみんなよそよそしい感じになってしまったそうです(まあ、近寄りがたい美女になったということでしょう)。

特殊メイクだけの日々を少し過ごしただけでも、こういう経験をしたそうですから、やはり女性にとっての美醜の問題は大問題ということがよくわかるエピソードでした。そういう問題を正面から映し出し、しかも整形という現代的テーマをも併せて提起しながら、その善悪・是非についてはまったく関与せず楽しい娯楽作品に仕上げてみせたところに、この監督の深い力量がうかがえる作品だったように思います。

いずれにしても、この映画はまさにキム・アジュンあっての映画でしたね。彼女にしかできない役でしたし、また彼女でなければこれだけヒットしなかったでしょう。それは、ストーリーのおもしろさもさることながら、やはりこの映画に使われた歌の選曲のよさ、そして彼女の歌唱力にあったことは間違いありません。ですから、選曲をしたキム・ヨンファ監督、選曲・編曲をした音楽監督のイ・ ジェハクの手腕も大いに讃えられてしかるべきでしょう。

これはキム・アジュンの出世作にして彼女の最高のプロモーション・映画となりましたね。

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2008年7月 8日 (火)

『ザ・マジック・アワー』

『ザ・マジック・アワー』を劇場で観てきました。
実に楽しい映画でしたねぇ。いわゆるエンターテインメントとして王道をゆく映画でした。とにかく笑えます。劇場で私も随分と声を出して笑ってしまいました。ちょっと感じたのは、最近の映画が漫画やコミックを原作としてつくるものが多いのに対して、この映画は映画で漫画を描いているということでしょうか。

三谷幸喜監督作品は、今までにも何本か見ましたがいずれもその場で笑える楽しい映画ですが、後に残るものが何もありません。そして、この映画も間違いなく後に残るものは何もありません(笑)! でも、実におもしろかった。そう言いたい。そんな映画でした。

それにしても、今の日本映画界は俳優さんが過剰なのでしょうか? それとも三谷監督の仁徳で、著明な俳優さんが喜んでちょい役でも引き受けてくれるからでしょうか? 恐らくどちらも本当のような気がしますが、とにかく普通なら主役を張れるクラスの役者さんがメジロ押しの出演です。

いま、ちょっと思い出しても、中井貴一、天海祐希、鈴木京香、唐沢寿明、ちょっと毛色は違うけど香取慎吾等々の面々がほんのわずかなシーンだけを埋めるだけのために出演しています。そして、新人としては、やはり綾瀬はるかくらいがその位置になるのでしょうが、彼女も先日の『僕の彼女はサイボーグ』で主演を張りましたから、その他のメインキャスト――佐藤浩市、妻夫木聡、深津絵里、西田敏行などとともにすでに皆さんおなじみの俳優陣ということになります。ぜいたくと言えば、こんなにぜいたくな映画も珍しいですね。

いつも思うのですが、三谷監督という人は映画づくりそのものが好きなんですね。それがとてもよく表れていた映画だと思います。

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『クライマーズ・ハイ』

『クライマーズ・ハイ』を劇場で観てきました。

まず観終わっての感想は、「う~ん、実に見ごたえのある映画だった、観てよかった」というものでした。これから検討されている人がおられたら、ぜひご覧になることをお薦めします。

私にとっては久しぶりに社会派?の映画だったと思いますが、この映画は1985年のあの日航機墜落事故のときに地元紙の記者たちが繰り広げた取材と編集にまつわる物語をドキュメンタリータッチで描いた映画です。 新聞社という公器のもつ裏側の事情などをさらけ出しつつ、一方で情報の質とは何か、ということにも正面から向き合った作品でした。

キーワードは主人公・悠木が少年時代に観た外国映画の中のせりふ「チェック&ダブルチェック」。ただ、この映画の最後には、これらのチェックを経てさえ真実はだれにもわからない、というところにまで踏み込み、それを暗示して終えているところが凡庸な作品とは一線を画したものにさせています。

ストーリー自体は、あの日航機事故のあった御巣鷹山の地元・群馬県の地元紙「北関東新聞」の記者・悠木(堤真一)が、墜落事故発生の日からこの事故に関する記事・編集に関する全権デスクを任されて遭遇する約1週間の苦闘を描いたもの。

どんな仕事場でもそうであるように、過去の仕事の実績によって幹部が存在します。一方、過去の栄光だけで偉そうに言っている(ように見えてしまう)幹部や先輩におもしろくない思いをしている現場記者や編集者がたくさんいるという構図は、まず平均的なサラリーマン社会を表しているでしょう。だから、多くの人にとって身近な例に引き比べて理解できるシーンも多いはずです。ただ、一般の会社と多少違うと思うのは、随所に生の感情をぶつけあって喧嘩する場面の多いことです。

一般的には自己保身がありますから、この映画に出てくるほどの激論・討論――とくに社内で上司を罵倒するようなことは普通なら「辞職願」を懐に入れておくのでもなければまず考えられないのですが、この新聞社では平気で罵倒し合います。ある意味、羨ましいくらい風通しのよい職場文化とも言えます(笑)。

まあ、これは多少脚色もあるのでしょうが、新聞社の場合には実際に火事場同様の雰囲気のことも多いでしょうから、これに近い場面は結構あるのかもしれません。少なくともさほど違和感を覚えることなく見ることができました。 それにしても、悠木がその上司を罵倒する言葉の一つひとつが実に当意即妙で、サラリーマンだったら一度は言ってみたいたぐいの胸のすくような言葉が次々に連射されるので、ついつい引き込まれてしまいます(笑)。シナリオが優れているんですね。

それから、悠木は事故関連記事の編集全権を得ていますから、上司としての姿も当然出てきます。臨時の全権デスクと言ってもいわゆる中間管理職に毛の生えたものみたいなものですから、経営者と現場記者との板挟みに苦悩する姿も随所に出てきます。仕事上必要となる冷徹な指示の数々も出さなくてはいけません。それらについても、いずれもリアリティあふれた見ごたえのあるシーンとなっておりました。

そして、記事一つを書くための裏づけ。これがどれくらい困難なものなのか。若い新人女性記者に向かってこう言います。「”たぶん”、”恐らく”、”~だと思います”、こういう言葉のない情報を持ってこい!」。

やがて、全国紙さえ出し抜くかもしれない特ダネ情報を記事にするかしないかで、悠木は決断を迫られます……。

この後は映画をご覧になってもらうとして、とにかく全編気を抜くことを許さない密度の濃い映画でした。その一方でストーリーの頂点までの流れを、登山になぞらえていま何合目辺りにいるのか、それとなく示唆しているシーンが合間に挟まれており、一呼吸置かせる工夫もされています。

役者については、これまた皆さん熱演です。堤真一はここのところどんどん昇り調子ですね。迫力ある全権デスクを好演しています。また、名前はいちいち挙げませんが、悠木の上司役である局長・次長・部長や同僚などを務めた各俳優陣たちも実によかったです。とくに部長役の遠藤憲一は、ほかの映画でもよく名前を見かけるのですが、この映画で初めて意識するようになりました。

最後に「クライマーズ・ハイ」の言葉の意味がこの映画のどこに関連するのか、ここには書きませんが、これも見終えてからわかります。 いやあ、おもしろかったです。


おまけ(既に見終わった方へ)

この映画のクライマックスともいえる県警キャップの堺雅人がウラをとって悠木に電話をかけるシーンがあります。このとき、「サツカンなら、100%です」と言った意味が私にはよくわかりませんでした。わかるのは、”条件付きの裏づけ100%”ということなのだろう、と理解しました。それで間違いなかったのですが、この言葉の正確な意味を知ったのは元・新聞記者の書かれている次のブログを読んでからです。興味のある方のために、ここで紹介しておきます。

「やさぐれPRマンの広報・コミュニケーション日記」

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2008年6月19日 (木)

『僕の彼女はサイボーグ』

クァク・ジェヨン監督作品(漢字では「郭在容」と書くんですね)です。彼の『猟奇的な彼女』や『ラブストーリー』はかなり好きな作品ですから、とにかく『僕の彼女はサイボーグ』は見ておこうと、久しぶりに劇場で観てきました。

作品の出来としては★勘定で3つぐらい(5つ満点)でしょうか。論理的に考えるととてもついていけない世界です。まあ、ある意味時間旅行をネタにしたメビウスの輪を映画にしてみたが、それに飽き足りず最後の最後でその輪から出られるようにしたということなのかもしれません。また、題名も「サイボーグ」というより「アンドロイド」だろう、と突っ込みたい人も多いのではないかと思いますが、サイボーグと言い張るのですから、ここではそれで書き進めていくこととします。

さて、とはいえこの映画は映像的にはかなり見ごたえがあります。その第1番目は、やはり綾瀬はるかでしょう。この女優がものすごい美女であることに圧倒されてしまいました。また、最初の登場シーンの肌にピタリとしたコスチュームに代表されるように、その抜群のボディラインの美しさに久々にうっとりとさせられました(笑)。まあ男性の多くの方々が、わたしと似たような思いをしたのではないでしょうか。正直言って演技を見る以前に彼女の姿・形だけ観るだけても、十分値打ちがありそうです。これが最初見てすぐの、いちばん強烈に感じたことでした。

2番目は、やはり東京大地震の映像でしょうか。これは近未来にあり得ることなので恐らくこんな感じになるのだろうな、などと妙に説得力を感じたものです。3番目は、タイムトラベルで彼女に連れていってもらう主人公ジロー(小出恵介)の子供時代の世界です。これはどう考えてもジローの年代と合わないとしか思えないのですが、それはそれとして美しい田舎の昭和の情景が映し出されています。

綾瀬はるかについては、私の場合、玉木宏が主演だったので一応見ていたテレビドラマ『鹿男あをによし』でその相手役として出ていたのが初お目見えでした。でも、あのドラマではすごい美人というより、ちょっとほんわかしたカワイイ系の女優さんというイメージでしかありませんでした。というより、さほど強い印象を受ける女優さんではありませんでしたね。しかし、この『僕の彼女はサイボーグ』での綾瀬はるかは、上記したようにその美女ぶりにすっかり度肝を抜かれ、今やその落差の大きい分、印象は強烈なものとなりました。

正直、演技的に上野樹里や蒼井優のような特別際立ったものは感じませんでしたが、ちょっと視線が独特で、瞳ではなく瞳の奥15センチくらい後ろのほうから見ているような錯角を覚える表情をよくします。それがとても謎めいていて、とくにこの映画のような独特な無表情さが必要となるような役柄にはうまくマッチしていたようにも感じました。

ところでこれから観られる方には、こんなことをお薦めしておきます。「彼女」こと綾瀬はるかの眼と表情によく注意することです。とくにまばたきをするかしないか、涙を流すか流さないか。それを意識に入れておいて観ていくと最後にそれがどういう意味の構成になっていたかがわかるようになっています。

ただし、ストーリー自体はかなりめちゃくちゃなタイムトラベルものです。時空間の構成が1回見ただけではよくわからないかもしれません。でも、クァク監督作品らしく最後にはラブストーリーとして終わるようにはなっています。論理性をまったく無視してみれば娯楽作品としておもしろく見られる方もいるもしれませんが、時空間の構成を多少考えるタイプなら、かなり突っ込みどころ満載で、中には呆れてものも言えないという人が出てくる可能性があります(笑)。そんな映画です。

おっと、もちろん綾瀬はるかのファンなら文句なくお薦めの映画ではあります。

ここからネタバレ

クァク監督はそれまでの作品でもちょいちょい見せてきたように、スカトロ趣味とタイムトラベル趣味があります。今回もきっちりそれらがあって笑ってしまいました。

主人公のジローが酔って、自分の吐いたゲロに顔を突っ込まされるシーン、あるいはジローの友人が中東のある民族の変わった食習慣としてある家畜のうんこを食べるという蘊蓄(うんちく)をランチの席で自慢げにしゃぺるシーンなどはまさにクァク監督の面目躍如?たるものがありました。とにかくゲロとウンコは彼の作品にはつきものですから(笑)。そして、もちろんこの映画の題名にあるサイボーグは未来からやってきたのですから、全編これタイムトラベルSFという仕立てとなっています。監督にとっては撮ってみたかった映画の一つであったに違いありません。

ざっと物語を追ってみます。

2007年11月22日は、主人公の理工系の大学生、北村ジロー(小出恵介)の20歳の誕生日です。彼女もいない彼は、例年どおり自分に対するプレゼントをデパートで購入しています。女性アンドロイドのフィギュアのようです。勘定を済ませてデパートを出ようと歩いていると、どうもだれかから見られている感じがします。その視線を感じる方向に目を向けると、フィギュアと同じようなコスチュームを着た未来人のようなスタイル抜群の若い女性(綾瀬はるか)がこちらをしきりに見ていることに気づきます。それが、彼女との出逢いでした。

彼女とは初対面なのに、まるで恋仲であるかのように親しく接してくるものですからジローとて嬉しくないはずがありません。その夜は二人で愉快にすごします。そして、深夜彼女はさよならを告げて去っていきます。別れ際に記念のマスコットをジローに手渡し、「私は100年以上先の未来から来たの」と告げて。それは、まるで夢のような一夜でありました。

その後は彼女に再会することもなく、いつものようにキャンパスライフが続きます。ただ、ジローは次の誕生日、つまり2008年11月22日の誕生日にまた彼女と再会できるのではないか、とひそかに期待するものがありました。

いよいよ、誕生日当日となりました。ことしの自分に対するプレゼントは腕時計です。昨年と同じデパートだったのですが、残念ながら彼女は現れません。でも、ジローはいつものあのレストランでスパゲティを食べています。すると、突然昨年とまったく同じようなタイミングで彼女が現れたではありませんか。びっくりするジロー。彼女はケーキを贈り、ハッピーバースデイの歌を歌い祝ってくれます。でも、このたびの彼女は一年前の彼女とどこか違う感じがします。顔かたちは同じなのに、どこか機械的なのです。

と、そのときにわかに店内を銃声が響き渡ります。それまでカウンターでウィスキーをしきりにあおっていた中年――人生に絶望したらしい1人の男がマシンガンを手に撃ちまくっているのです。べろべろに酔っていて手がつけられない状態です。やがて、彼女は反撃に出ます。サイボーグだから無敵です。なんなく乱射男を外に放り投げてジローも怪我一つせずに済んだのでした。

二人はジローの自宅に着くと彼女の目が突然映写機となり、そこに立体動画があらわれます。そこには、ジローの62年後の未来の自分が映し出されていました。そして、未来のジローが今のジローにこう言うのです。

「おまえは、きょう彼女に会えてうれしかっただろう。でも、本当は彼女は来なかったのじゃ。それで、わたしはあの乱射男の銃に撃たれて両手を失ってしまった。」
確かに映像の83歳の老人・ジローは両手が機械化されたサイボーグ姿です。

以下、その映像によってこんなことがわかります。 乱射事件の1週間前に購入したロトくじに当たって大金持ちとなり、その資金を利用して60年以上かけてこのサイボーグ彼女をつくったこと。そのモデルは、2007年に出会った彼女だったこと。そして、彼女をこの2008年に送ったのは、自分の両手を失わずに済むよう今のジローを守るためだったこと、などです。これらが今のジローに明かされます。つまり、ここで時空は本来あった時空から変わったということですね。

もう一度ここで整理します。本来は2008年11月22日に彼女は来なかったのです。だから、ジローはこの日以降、両手を失う障害者となってしまっていたのです。そして、そのまま63年の歳月をかけてサイボーグ彼女をつくったのでした。そして、そのころには確立していたタイムトラベル技術を利用して、彼女をこの2008年に送り出した、とまあこういうわけです。

最後に未来のジローは、不気味なことをいいます。「歴史は、本来あったことをねじ曲げると元に戻ろうとするから、これからいろいろと悲惨な目に遭うだろう」と。したがって、未来のジローも経験したことのない災厄・災難に遭うことを現代のジローに予言してその映像は終わるのです。

そうすると、ここでまず2008年に障害者となったジローの生きる世界が一つあることがわかります。これを第1時空とします。並行宇宙の考え方です。この第1時空でのジローは過去である2008年にサイボーグ彼女を送り出してから死ぬという一生を終えたことがわかります。

さて、現在に戻りましょう。第1時空での災難(乱射事件)から、このサイボーグ彼女によって助けられたジローが生き続ける時空がここから分岐することになります。これを第2時空とします。われわれが観た映画の内容は、この第2時空の物語です。

そこでは、ジローのバイト先の目の前の道路でクルマに轢かれるはずの幼い男の子が彼女によって助けられたり、あるいは火事で焼死するはずの子供たちが助けられたり、また女子高生と女性教師が校内に閉じ込められ殺されたはずの事件では、犯人を彼女が投げ飛ばすことによって被害者らが救出されたりする世界=第2時空です。

これらは第1時空でジローがニュース等で知ってあまりの痛ましさに何とか救いたいと考えていた事件でした。それをサイボーグ彼女にあらかじめプログラムしておいたから救うことができた、という設定です。でも、だれでも気づくように第1時空のジローは、両手がないのですからファストフード店でバイトなどできないはずなのですが、まあそこはお愛嬌ということにしておきます(笑)。

そして、やはり未来のジローによってプログラムされていたものに、ジローの幼少時代への時間旅行があります。この旅で出会う田舎の祭の情景やサクラが満開のシーンなどはとても美しく、また駄菓子屋なども非常に懐かしさを覚えさせるものがありました。

ただ、1987年が誕生日と思われるジローが小学一年生のころだったとすると、それは1993年前後となります。 そうすると、上記したような情景が本当にあったのだろうか、という疑問が出てきます。私の感覚からいうと、どうしたって昭和30年から40年代くらいまでの情景でしたからね(とくにズボン、あんなに長いズボンを1990年代前半の子供たちがはいていましたかねぇ?それから、もう一つ宝物を入れた缶の箱、あれは相当昔のものでしょう)。確かに都会に比べて相当の田舎に行くと文化的に年代がややずれることはわかるのですが、この辺の時代考証をどの程度にしたのかやや疑問です。でも、これもきれいなシーンでしたから、よしとしておきましょう(笑)。

そうこうするうちに、ジローは当然のようにサイボーグである彼女に恋してしまいます。そして、その思いを告げても「彼女」には人間と同じようには伝わりません。多少人間になじむようプログラミングされていたようなことを言っていましたが、まだ日は浅いのですから当たり前です。しかし、毎日一緒に暮らすわけですから、そういうことがとても辛くなってきます。ついついイライラすることも多く、ある日酔いも手伝って別れを宣言します。二度とおれの目の前にあらわれるな、と厳命して別れるのです。

ここは、ストーリーとして極めて大事なところなのですが演出のせいなのか、あるいはジロー役の小出恵介の演技がもう一つだったのか、どうもこちらに訴えるものをあまり感じませんでした。ここは、ラブストーリーとしてサイボーグに恋する人間の苦悩が強調されなくてはいけません。そうしてこそ後の震災でのサイボーグ彼女とのやりとりがいっそう美しくなるという構造のはずですから。小出恵介が『猟奇的な彼女』でのチャ・テヒョン的役割であることは明らかですが、ここでの一連のジローの演技にはやや物足りなさを感じてしまいました。

さあ、いよいよ東京大地震です。 先日も中国四川地震、岩手・宮城内陸地震と立て続けに起きたばかりですから、この映画の地震のシーンはとても絵そらごととして観ることはできませんでした。新宿近辺の高層ビルがどんどん崩れ落ちる姿は、まさにこんな感じなんだろうなぁ、と身につまされます。 そして、ジローが震災で命を落としそうになったちょうどそのとき、彼女は突然現れて救い出します。予定どおりです。

しかも、ジローを助けるために彼女は自分を犠牲にします。機械でできている彼女は、重くのしかかる瓦れきのなかで自分の下半身をあきらめます。下半身から上半身を引きちぎり、上半身だけで移動してジローの側に行きます。そして、地割れの中にまさに落ちようとしていたジローを助けるのです。と、彼女はまたもや瓦れきに押しつぶされ息絶えます――じゃなくて機械停止します。

さて、この後助かったジローがこの瓦れきのなかから彼女の体を何とか捜し出して修理することに成功します。幸い彼女の記憶は2008年のあの日からのものがきちんと残っていました。そして、ジローはやはり2070年、83歳ころに満ち足りた気持ちで彼女に看取られ死を迎えることができたのです。めでたし、めでたし。

えっ、こんなんで終わりなの、ちょっと物足りないかな、とか思っていると、おやおやまだ続きがありました(クァク監督作品は何と言っても最後のどんでん返しにおもしろさがあるのですから、そう来なくちゃね(^-^))。

まだ、第2時空です。それから60年以上が経過します。サイボーグ彼女も機械的寿命が尽きてしまったようです。

2133年、彼女の体と83歳のジローの人形?が、あるオークションで出品されています。ここで、サイボーグ彼女とうり二つな「生身の」女性が登場します。このサイボーグ彼女を見て、あまりに自分にそっくりであることにびっくりします。そして、自分の誕生日プレゼントとしてこのサイボーグを落札するのです。やがて、記憶だけはそのままだったサイボーグの脳細胞(人工ニューロン)と接続したこの生身の彼女は、サイボーグ彼女が経験した記憶すべてを自分のものとします。

さあ、生身の彼女はこの新たな記憶によって、すっかりジローに恋してしまいます。ついつい好奇心も手伝って、2008年のサイボーグに出会う前の状態のジローに会いたくなり、2007年の11月22日に時間旅行します。つまり、振りだしに戻る、ってやつですね。

でも、これはすごくおかしいのです。

というのは、第1時空にしろ第2時空にしろそれら時空での2007年11月22日には、すでに未来の彼女がやってきているからです。ですから、ここでまた新たに2007年に行けば、当然その未来彼女1号がそこにいるはずで、いまここでタイムトラベルしてきた彼女は2号となります。つまり、彼女が二人とならなければいけないのです。それはそれで並行宇宙では認められています。自分のいる過去に戻ることはできても、過去の自分と同一化することはできないのです。

同一化できないことは、例のマスコットのことを考えれば容易に理解できます。2133年の彼女にとって、あのマスコットはオークションのおまけです。サイボーグの落札とともにジローの遺品として入手したものです。ところが、あのマスコットをジローが手に入れたのは2007年の11月22日に彼女からジローに渡されたものでもあります。つまり、ここでループしてしまってマスコットの起源がどこにもまったくありません。あり得ない所以です。

ところが、ストーリーの流れとしては振りだしに戻らないとストーリーが成り立たなくなります。そのようにストーリーをつくっているからなのですが、ここにトリックが仕掛けられているということでしょう。つまり、ストーリーの自然な流れを追うと、時空間の整合性がとれなくなり、時空間の整合性を図ろうとするとストーリーが成り立たなくなる、というわけです。あえて両者が矛盾するようにつくられているのだと思います。少なくとも、私の頭ではこういうふうに考えるしかありません。

この映画は、どうやらエッシャーのだまし絵のように、あるいはクラインの瓶、メビウスの輪のように入口と出口が同じという概念を映画化しようとして作成したように見えます。以前、やはり韓国映画の『イルマーレ』でも感じたのですが韓国の映画監督は、時間旅行をテーマにするとありきたりのものでなく、このような無限ループを描くようなものにしていく傾向が感じられます。普通のタイムトラベルものでもいい作品はできると思うのに、ちょっと不思議です。

それはともかく、ここで無限ループということならそういう作り方もあっていいかもね、と考えたのですが、実はこの後がまだ続くのです。やれやれ(^^;)。

最後の最後に無限ループを解除することでも考えたんでしょうか、2133年の彼女が2007年のジローに会ってから、その後一たんは元の2133年に戻ろうとしたはずなのに(それはモノローグで語られます)急遽変更! あの大地震でサイボーグ彼女を掘り出したシーンのジローの傍らにあらわれるのです。そしてこうつぶやきます。

「ここで私は彼と一緒に生きていく」

ええーっ!!! 何、それーっ!

せっかく無限ループする時空映画という、それなりのコンセプトとして理解したつもりになっていたのに、いやもう、これではさっぱりワヤですわ(笑)。ハッピーエンドということなんでしょうが、さすがにここまで来るとやはりついていけません。

いや、もちろんいいんですよ。その後、ジローはサイボーグ彼女の必要性がなくなったので修理もせず、生身の彼女と楽しく暮らしましたとさ。チャン、チャン!! 何だか、真面目に考えてきたのがばかばかしくなります。もうどうとでも好きにしなさい、ってなところです(^_^)/~。

でも、きれいな綾瀬はるかは一見に値します、いや、ただそれだけの映画かもしれません、「この映画」=「綾瀬はるかのプロモーション・ムービー」! はははっ。

おまけ:2133年の生身の彼女が2007年のジローに会いに来たのですが、ジローの自宅のある屋上に着いたとき、なぜ石を投げて窓ガラスを割ったのか。その理由がさっぱりわかりません。どなたか分かる方、教えてください。

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2008年5月 9日 (金)

NHK連続テレビドラマ『ちりとてちん』総集編

総集編がこどもの日から2日連続であったことをたまたま知って、録画したものをようやく見ることが出来ました。

昨年11月から12月半ばくらいまでは見続けていたのですが、ちょっと迂遠(うえん)なところも続いていたため、ついつい見るのをやめてしまっていてその後もときどき見る程度になっていました。気にはなっていたので今回の総集編は大助かりです。

総集編を見て、ストーリーのあらましは以下のような流れで構成されていることがわかりました。

  起→ 「喜代美、小浜を出る」編
  承→ 「徒然亭草若に弟子入り」編
   転→ 「草若の死と落語常打ち小屋設立に奮闘」編
   結→ 「常打ち小屋の完成と喜代美の引退・出産」編

そして、このドラマのテーマは幾つかあると思いますが、どうやらいちばん重きを置いていたのは、母という存在は太陽のように家族を照らす素晴らしいものなんだ、ということでしょうか? あるいは、脇役という人生などない、ということだったのでしょうか。そんなことを感じました。

ところで、今回の二回にわたる総集編ドラマを見てもっとも感心したシナリオは、草若が病に倒れたため急遽「草若・若狭の二人会」が「草若弟子の会」となった天狗座での高座で、若狭がしゃべる創作落語の冒頭シーンです。ちょっと起こしてみます。

ようこそのお運び、厚く御礼申し上げます。

えー、きょうはもともとうちの師匠・草若とわたしの二人会のはずやったんでございますが、師匠が病に倒れまして
「これはえらいこっちゃ、だれぞおれの代わりに出てくれるかぁ?」
と尋ねましたところ、やはり天狗座の大舞台ですからね。四人の兄弟子が一斉に
「はい」、「はい」、「はい」、「はいーっ」と(笑)。
「おれの病の心配をするもんはおらんのか」
と言うてましたけど、
「まあ、ええわ。で、ネタは何かける?」
言うたら、うちの草原兄さん即答で
「はいっ、地獄八景を」。
「不吉なこと、言うな」(会場笑)

そない言いながらも結局うれしそうに稽古をつけてまして、師匠、地獄へ行く気、満々やないですか(会場爆笑!)。

まあ、どこまでもふざけた師匠ですけど何でこんなけったいな師匠に弟子入りしたかと言いますと、1本のカセットテープ、これに導かれて参りました。

小さい頃に聞いていた落語のテープ、これが草若師匠の高座でして、

カチッ(小拍子の音)
「こんにちは」
「はい、どちらさん?」
「わたし、和田と申します」
「わたしは草若と申します」
いや、知ってるから訪ねて来てます(会場笑)。

うーん、 実によく練られたシナリオですね。感心するばかりでした。
また、これを演じた貫地谷しほりも実にはまった感じで好演していて、「地獄へ行く気、満々やないですか」のところでは思わずぷっと吹き出してしまいました。

貫地谷の演技は総じて一生懸命無心に演じている様子が伝わってきて好感の持てるものでしたが、やはりやや若過ぎるか。結婚してから以降の演技にはところどころちょっと無理があったかなぁ、という感じがしていました。とくに草々とのラブシーンなんか、いま一つの感じがありましたし、夫婦とはとても思われない草々とのコンビネーションには思わず苦笑してしまったところもあります(笑)。まあ、落語家夫婦というのは先ごろ離婚した小朝夫妻の例がありますから、一般の夫婦とはよほど違うのかもしれませんが。

まあ貫地谷はあまり器用ではなさそうですし、ともするとやや一本調子の演技が目についたところもあったのですが、明るい表情が豊かで何故かピュアな芯のようなものが感じられて、知らず知らず応援したい気分にさせる魅力があります。

ですから、彼女の演技ではこの高座の語りシーンと最後の出産後の満足げなベッドで笑みを浮かべるシーンがいちばん印象に残っているのですが、やはり笑顔が絶えない明るいキャラクターがいまのところいちばん向いている役柄のように感じます。悲嘆にくれたり、苦悩するキャラクターを演じるにはいま一つ、まだまだこれからというところでしょうか。何しろまだ若いですからね、今後に期待です。

もう一つ、今回の総集編で印象に残ったのは母の糸子(和久井映見)と喜代美との対面のシーンです。喜代美が落語家を引退する心情、その理由を吐露するところです。ここも、ざっと振り返っておきましょうか。

「ひぐらし亭」の初日を妊娠によって高座に上がることができなくなった喜代美は、照明を担当することになりました。照明は、高校時代に主役から脇役に回された屈辱の経験が思い出され、喜代美にとって決して気分のいい仕事ではありません。しかし、今回は渋々でも引き受けることになりました。

さあ、常打ち小屋「ひぐらし亭」の初日が始まりました。

予定どおり、喜代美はスポットライトを当てます。草原を始めとして草々、小草若、四草、小草々の面々が次々に口上を述べます。ライトもそれに応じて切り替えていきます。そして口上の終わった草若一門に客席から暖かい拍手が起こるなか、喜代美はライトを当てながらふと順子(宮嶋麻衣)の言葉を思い出します。

順子「主役になるいうのは、ステージの真ん中に立ってスポットライトを浴びることやと思うとるんけ。人にライトを当てるいうのは、素敵な仕事やが」

それと同時に客席で一生懸命拍手する母・糸子の姿を見たとき喜代美は、はっと悟るものがあったのです。人に光を当てる仕事の何たるかを……。


ただし、この時点で何を悟ったのかはわれわれにはわかりません。ただ、喜代美は何事かを決意したように見えます。

さて、体調が回復したところでおじいちゃんの命日にひぐらし亭の高座をつとめることになった喜代美。滞りなく演目が終わると、最後にこの日で引退することを静かに観客に向けて伝えます。


何と引退を考えていたんですね。これが照明の際に悟ったことの結果なのでした。

びっくりした糸子をはじめ家族が楽屋になだれ込み、引退を撤回するよう説得します。そこで初めて喜代美は母・糸子に対して自分の思いを伝えるのです。

母・糸子から落語をやめることを思いとどまるよう言いまくられて、喜代美は糸子に対して「ごめんなさい」と謝ります。糸子は、「それならそんなこと言いないな」と応えるのですが、それに対して喜代美は 「そのことやない。小浜出るとき、ひどいこと言うてごめんな」 と返します。

ここで回想シーンです。
小浜を出たいと言う喜代美に対して

糸子「ここにおりなさい」
喜代美「いやや」
糸子「何でや」
喜代美「お母ちゃんみたいになりたくないの!」


回想シーンが終わり、ややあって

喜代美「ごめんなさい。あのころ、私、お母ちゃんの仕事はしょうもない思とった。自分のやりたいことなんか後回しで、家族の心配ばっかりして、世話焼いて、人のことで笑(わろ)たり泣いたり、なんてつまらん脇役人生や、思とった。けど、そうやなかったんやね。お母ちゃんは太陽みたいに、いつでも周りを照らしてくれとる。毎日、毎日……、それがどんだけ素敵なことかわかったんや。どんだけ豊かな人生か、わかったんや」


そして続けます。

喜代美「お母ちゃん、ありがとう。ずっとずっとお腹におるときから大事に大事にしてくれてありがとう」


さあ、思いもかけないことを言われた母・糸子はびっくり! 

しかし、それはまた母にとって何にも勝る積年の自分に対するねぎらいの言葉です。引退を思いとどまらせたい気持ちだったのが、自分に対するねぎらいの言葉にうれしい気持ちは隠しようもありません。そして、やっとこう言います。

糸子「何言うとるんやな。この子は……」

ややあってもう一度
糸子「この子は!」
(この二度目の「この子は!」での和久井の演技は最高でした!)

喜代美の頬に両手を当てながら込み上げる気持ちに堪えない面持ちです。


喜代美「わたし、お母ちゃんみたいになりたい。お母ちゃんみたいになりたいんや」

いやあ、ここの二人の演技はだれをも泣かさずにはおかないものでした。このドラマ全体の終幕を飾るにふさわしい熱演・名演だったと言ってよいでしょう。

                                         ****************

最後は出産のシーンで終わりましたが、その直前に愛宕山の一節「その道中の陽気なこと!」が締めとして草々によって高らかに唱えられました。

結局、このドラマでは愛宕山が終始ドラマの節目、節目に出てきたわけで、この落語がこのドラマの通奏低音のような役割を果たしていたようです。上方落語の存在感をこの「愛宕山」に託して見事に印象付けたように思います。

ところで、ここで少し話題を変え役者についていくつか述べさせてもらいます。

今回のドラマでは、ベテランの名優クラスと新人の俳優が競い合うかのように演じておりました。 草若の渡瀬恒彦や小梅の江波杏子は期待されたとおりの演技でしたし、またこのドラマで最も名演を魅せてくれたのはやはり和久井映見でしょう。コミカルな演技という新境地も披瀝して幅の広さまで感じさせてくれました。

次いで、新人と言っていいのでしょうが草若の弟子陣がそろいもそろって皆さんなかなか魅力的なものでした。 草原の桂吉弥、草々の青木崇高、小草若の茂山宗彦、四草の加藤虎ノ介。それぞれが熱演、好演していたように思います。それぞれに個性が感じられ、このドラマを見て新たにファンになった人も多いように思います。

青木・草々は、脚本のせいですから仕方ないのですがアフロヘア時代のほうがより魅力的でしたね。四草は要所、要所でドラマにおけるスパイスの味をうまく出していて、加藤虎ノ介にとっては出世作となったのではないでしょうか。

また喜代美の友人として野口順子役の宮嶋麻衣も出番の少ない割には非常に印象に残った役者さんでした。洞察力のあるしっかり者という、かなりドラマの鍵になる役柄でもありましたから得な面もあったかもしれません。もちろん、A子・和田清美役の佐藤めぐみも印象的でした。もっとも、上京した後については若過ぎて演技が難しかったかもしれませんね。いくら表情をつくっても、見目形がきれいすぎて東京で苦汁をなめたという感じがほとんど伝わりませんでしたから(笑)。

ほかに個人的に印象に残った人は、喜代美の弟役の橋本淳と草原の妻・緑役の押元奈緒子のお二人でしょうか。今後もどこかでお見かけすることを期待します。

また、ナレーションの上沼恵美子はやはりよかったように思います。ナレーションが品のよい上方らしさをうまく醸し出していたように思います。

最後に、ちゃんと毎朝全部見たわけでなく、ときどき見た程度で今回の総集編を見ての話ですから勘違いしているところのあることを百も承知のうえで、このドラマについての総合的な感想を。

わたしは前半はかなりおもしろく拝見したのですが、途中から見たいところ――年季があけるまでの修業中の喜代美が四苦八苦する姿がほとんど見られなかったり、あるいは草若が死への床に伏してから延々と見舞い客とのやりとりがあるような筋立てにうんざりしてしまい、ついつい見るのが億劫になってしまいました。

各俳優さんのファンに対するサービスだったのかもしれませんが、言うまでもなく俳優があってドラマがあるのではありません。やはりどんな名優がいるにしても、ストーリー優先でつくり込んでほしかったように思います。どことなく俳優陣の出番に配慮し過ぎのきらいが感じられたのでこういうのですが、思い違いだったらごめんなさい。

いずれにしろこのドラマの脚本は非常におもしろくてまたよく練られたものでした。藤本有紀という脚本家を今回まで知りませんでしたが間違いなく才能のある人だと思います。今後も注目していきたいものです。

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